名誉のドイツ文学史


本を出しました、といっても論文集。
このHPに載せているものにちょっと手を加えた上でまとめただけ。
名誉関連論文6篇、歴史文学論3篇、ユダヤ人問題小説論3篇、他1篇。

内容・目次は以下の通り。

                                           名誉のドイツ文学史

1.近代ドイツ文学に描かれた名誉の諸相

はじめに

Weinrich 『名誉の神話学』  (要約)

シラー『失われた名誉からの犯罪者』(1786)

ヘッベル『マリア・マグダレーナ』(1844)

シュティフター『古い印章』(1843)
レッシング『ミンナ・フォン・バルンヘルム』(1767) 
ブレンターノ『健気なカスペルと美しいアンネルの物語』(1817)

世紀転換期の身分制秩序と名誉 ,戦後ドイツ文学の名誉

2.名誉規定の呪縛
 シュニッツラー『グストル少尉』(1900)

3.「可愛い町娘」の自殺,そして復讐
  シュニッツラー『戯れの恋』(1895)[戀愛三昧]

シュニッツラー『遺志』(1898)

シュニッツラー『家族』(1891-93)

シュニッツラー『夜明け前の一幕』(1927)

4.世紀末ウィーンの妊娠小説

シュニッツラー『自由への道』(1908)

5.帝国の落日 身分制秩序と身分的名誉の終焉

ロート『ラデツキー行進曲』(1932)

6. ベル『カタリーナの失われた名誉』(1974)

なぜ尊厳(Würde)ではなく名誉(Ehre)なのか

名誉関連参考文献


                                                 歴史文学論三篇

7.   シラー『ドン・カルロス』  (1787)

他者の壁,思い込みと読み違えの悲喜劇

8.『ミヒャエル・コールハース』(1810) のルター像

ルター・司法・正義/復讐 (gerecht/gerächt)

9. フランス革命検死報告書『ダントンの死』(1835)

人権の消滅,自由の反転,平等・友愛の堕落

 

                                              ユダヤ人問題小説論

 

10.   ポヤッツの徴兵騒動   フランツォース『ポヤッツ』(1905)
    東欧ユダヤ人の西欧近代へのアンビバレンツ

11.  ホロコースト文学の盗作と偽書,作家は他人の苦しみを

Wolfgang KoeppenBinjamin Wilkomirski

(井伏鱒二『黒い雨』)

12.歪んだ凹面鏡のリアリズム

ヒルゼンラート『ナチ&理髪師』(1967-77)

13.    嘘・シバイ・仮面・変装・入れ替わり

西欧文芸に見る狐知礼賛

世紀転換期の身分制秩序と名誉,戦後ドイツ文学の名誉

 市民社会を賤民から隔てる名誉は18世紀にほぼ消えてなくなったが,貴族的名誉は依然として残った。名誉なぞもはや偶像(der Götze)でしかないと分かっているにもかかわらず,その前に拝跪し,名誉回復の儀式(決闘)をやらねばならない滑稽と苦悩が,世紀転換期のドイツ文学には繰り返し描かれている。決闘の他にもこれは更に身分差別制度という社会問題とも結びついて,特にシュニッツラーの数多くの戯曲や小説のテーマになっている。ハプスブルク帝国の落日を描いたヨーゼフ・ロートの『ラデツキー行進曲(Radetzkymarsch)(1932)も,貴族的名誉の終焉と身分制秩序の崩壊という視点から読むことが出来る。

フォン・テルハイム少佐やカスペル,アンネルに見たような内面的名誉を重んじる生き方は世紀転換期の文学には見当たらない。みんな賢く,損得勘定で動くようになったからである。名誉を重んじる廉直な生き方などは資本主義社会には馴染まない。恥や外聞に拘っていたのでは商売にならない。ブッデンブローク家の家訓は

 Mein Sohn, sey mit Lust bey den Geschäften am Tage, aber mache nur solche, daß wir bey Nacht ruhig schlafen können. (我が子よ,昼間は欣然として業務に励むべし,されど夜の安眠を妨げざる取引のみをなすべし。) であったが,19世紀後半ともなるとそれではしだいに立ち行かなくなる。

 戦後西独の「信義に篤く誇り高い」カタリーナ・ブルームは反時代的奇跡で,名誉というものの清冽苛烈な側面をあらためて世に示したと言えるが,それと同時に,マスコミによる誹謗中傷報道が被害者に人格障害・人格破壊を引き起こす様をも描きだしている点で興味深い。最近ではネットによるフェイクの拡散が加わり事態はますます深刻の度を加えている。この小説は半世紀後のわれわれに一層アクチュアルな課題を突きつけているように思われる。

歴史文学論三篇

以下に扱うのは歴史に題材を取った戯曲二篇と小説一篇である。

 シラーの芝居はほとんどが史劇であるが,『ドン・カルロス』はフェリペ二世治下,スペインが世界の覇者であった16世紀黄金期の同国宮廷を舞台とし, 独立を求めるフランドル(オランダ)をめぐる新旧勢力の対立抗争を扱っている。成立はフランス革命前夜の1787年。実質上の主人公はポーザ侯爵,人権尊重と自由・平等を熱く語る理想主義者である。彼は歴史上の人物ではなく,シラーの創作。ある程度史実を踏まえながら,その状況下に架空の先鋭的な人物を投入することで保守革新双方の問題を剔抉しようとする試みである。ただ,ポーザ侯爵は必ずしも理想化され,美化されているわけではない。むしろこの人物において熱狂的理想主義の危うさが描き出されている。これはビューヒナー『ダントンの死』のロベスピエールに引き継がれる。注目すべきことに,このシラー史劇は,最後に盲目の異端審問所長官が姿を現して立ち塞がり,啓蒙的理想主義を完膚なきまでに打ち砕くところで幕を閉じる。ドイツの研究者たちはポーザ侯爵の中にロベスピエールの先駆けを見る見方に対して激しく反発するが、これはむしろシラーの慧眼を否定することを意味する。

「歴史其の儘」ではなく「歴史離れ」して,史実の中に自由・平等・人権といった啓蒙思想が斬り込んで行くという実験的な試みをしているのはクライストの小説も同じである。16世紀前半のドイツでの事件において,マルティーン・ルターは司法による問題解決に道筋を用意すべく尽力する。その行動と思想には,啓蒙主義の洗礼を受けたクライストの息吹が吹き込まれており,史実とは異なる近代化されたルター像が刻まれている。商業活動の自由と人権の尊重を訴えるミヒャエル・コールハースについても同じことが言える。だが啓蒙思想の期待通りには事が運ばず,理想は人間の根源的な欲望やエゴイズムによって乱され,破綻させられる。この小説がカフカを魅了してやまなかった理由はそこにあるのかもしれない。

 ビューヒナーのフランス革命劇が描いているのもまさにこの啓蒙主義思想実現の試みの破綻に他ならない。扱われているのは1794年フランス革命末期の恐怖政治時代。隣国とはいえ,ほんの40年ほど前の出来事である。革命・革新の必要性を日々痛感させられる前三月期のドイツにあって,熱狂的革命支持者だったビューヒナーが,フランス革命の生々しい記録と史料を通して,革命の闇の部分を徹底的に見つめ,暴き出さざるをえなかった。自らの理想が覆される様を描きだしたことで,これは彼自身にとっての銷魂の書となった。

 ここに取り上げた三つの歴史文学においてはいずれも理想主義的啓蒙思想が敗北する。「啓蒙の弁証法」とは違い,啓蒙的理性が弁証法的に野蛮へと反転するというのではなく,啓蒙思想では太刀打ちできないほど深い人間性の巨大な闇によって理想が呑み込まれ,挫折させられるのである。


                             ユダヤ人問題文学

 ユダヤ人への偏見,差別,迫害は啓蒙主義作家レッシング以来,ドイツ文学の最も深刻なテーマであり続けた。フランツォースはガリツィア出身の開明派ユダヤ人として伝統的ユダヤ教徒たちの偏狭固陋ぶりには批判的だったが,小説『ポヤッツ』には,ドイツ演劇の舞台に立つ夢を叶えるべく悪戦苦闘する東欧ユダヤ人青年の姿を通して,辺境の地ガリツィア・ユダヤ人たちの西欧近代への憧れと反発という屈折した心情がよく映し出されている。西欧近代は文明の光と共に露骨なユダヤ人差別と徴兵義務を押し付けてきたのである。

 ホロコーストはあまりにも重いテーマであったために,それを体験したユダヤ人による手記や日記が主流だった。ところがその成功に目を付けて,中にはユダヤ人を騙って自伝や体験記と称するものを出版する者が出,日本ではろくに調べもせずそれらが翻訳され,もっともらしい解説まで付けるという事態が発生した。ホロコーストのような極限の苦しみは他人が踏み込むことを許さない厳粛な領域であろう。ドイツ人のスタンスとしては加害者側の問題を追求し,自らの罪と責任を見つめる姿勢しかない。

 成りすましを逆手に取ったのがユダヤ人作家ヒルゼンラートで,元SS隊員が戦後ユダヤ人に成りすまして旧ナチ党員捜索の網の目をかいくぐって生き延び,最後は敵の(ふところ)こそが一番安全とイスラエルに移住して,若い頃に近所のユダヤ人が仕込んでくれた技術を活かして理容サロンを開業し繁盛するという,人を喰った小説を発表した。このフィクションを可能にしたのは,宣伝によって人々の心に擦り込まれたユダヤ人イメージだった。主人公のドイツ人はこのユダヤ人イメージにあまりにもぴったりだったので,誰一人として彼をユダヤ人と信じて疑わないのである。恐るべきイロニーであり風刺である。


                     << ホームページへ戻る

 

 


inserted by FC2 system