てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った

 フランク永井の低音で一世を風靡した『有楽町で逢いましょう』(昭和33年)はもともと歴史的仮名遣いで書かれていて、本来は『有楽町で逢ひませう』だった、そうだ。
 しかし、こんなものは別にどちらでもかまわないと思う。
 私は小学3年の時以来、現代仮名遣いで教育を受け、そればかり使って来たから、旧仮名遣いなど使えないが、それで特に痛痒を感じない。
 現在でも旧仮名遣いの優位を主張し、それで文章を書く人たちがいる。
 たとえば丸谷才一。彼の学識には敬意を表するし、エッセイはおもしろいと思うが、小説はつまらない。あんな三文小説をわざわざ歴史的仮名遣いで書くなんて、歴史的仮名遣いへの冒涜だ、とさえ思う。『有楽町で逢ひませう』とさしてレベルは違わない。
 それに、明治、大正以前の時代を描くのならともかく、新仮名遣いで生きている現代日本人や日本社会をテーマとするのに歴史的仮名遣いを用いるのはおかしい。

 しかし、表題に掲げた

  てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。

 となると、事情は違う。
 これは歴史的仮名遣いで書かないとだめだ。

 安西冬衛の一行詩「春」。
 詩集『軍艦茉莉』(昭和4年刊)所載。
 初出はその2年前、詩誌「亜」。
  「てふてふ」は旧仮名遣いで、今日では「ちょうちょう(蝶々)」。
 「韃靼海峡」はシベリアと樺太(サハリン)の間の海峡で「間宮海峡」のこと。
 作者は大連(旧満州)の港にいて、実際に蝶が一匹大陸から樺太の方に向かって飛んで行くのを見た、それがきっかけだという。
 とはいえ、想像やフィクションの要素がない、とばかりは言えないだろう。本当に一匹だったのか、春だったのか、など…。
 ともあれ、ある種の蝶は海を渡って移動する。
 アサギマダラという種類らしい。


アサギマダラ

 以上がこの詩についての基礎知識。
 もともとは

 てふてふが一匹 間宮海峡を渡って行った  軍艦北門の砲塔にて

 となっていたらしい。
 さらに、もし「てふてふ」が「ちょうちょう」、「韃靼海峡」が「間宮海峡」となって…「ちょうちょうが一匹 間宮海峡を渡って行った」…では、内容は同じなのに、詩にならない。
 どうして? について多言を弄するのは野暮であろうが、「韃靼海峡」には音声面での効果があって、それに比べると「間宮海峡」は響きがおとなしい。「てふてふ」との対立・落差がなくなり、緊張感が消える。
 意味的なイメージの点でも、実際の韃靼人=タタール人や間宮林蔵とは無関係に、「韃靼海峡」には「間宮海峡」にない荒々しさがある。勇猛豪胆な「韃靼」の荒海(海峡)と、はかなげにして優雅なる「てふてふ」の対比、強大なるものにか弱きものが挑むけなげさ、だけでなく、そこはかとない諧謔味もこの詩にはただよう。「てふてふ」にはユーモアがある。
 その上、「てふてふ」と「韃靼」の字から来る視覚的な対蹠性が加わる。
 「韃靼」は画数も多く、音声面に劣らず剛直で猛々しい感じを与えるのに対して、「てふてふ」は前聴覚的・視覚的に蝶の羽の動きを模していて、声に出して「ちょうちょう(蝶々)」と読んでも、脳裏にはなお「てふてふ」の残像が残って、蝶が揺れながら舞い飛ぶさまが目に浮かぶ。
 最終バージョン・決定稿でなければ後世に残らなかっただろう。

 なお、以上シニフィアンの働きについてはHPの論文

をクリックして、読んでいただけるとありがたい。

 「てふてふ」のような歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)が廃止されて現代仮名遣いになったのは戦後間もなく(昭和21年)で、敗戦の結果である。
 現代仮名遣いは表音主義、読むとおりに書くを原則としていて、合理的、というのが新仮名論者の言い分だった。究極の表音主義はローマ字だから、ローマ字が小学校の必須教科になったのもこの頃のことだ。
 戦時中、軍部を中心としたあまりにも理不尽な精神主義にうんざりしていた敗戦直後の日本人は、一気に合理主義・科学主義へと傾いた。そのうえ敗戦で自信を失い、戦時中「大和魂」とか「八紘一宇」とか喚きすぎた反動が来て、伝統的日本文化への敬意もすっかりなくしてしまった。
 志賀直哉でさえ、日本語を廃してフランス語を国語にすべし、などと言ったほどである。
 しかし、表音主義という点で言えば、フランス語や英語の非表音ぶりは「歴史的仮名遣い」どころではない。表記してあるのに発音しない字もなんと多いことか。
 「てふてふ」を「ちょうちょう」と読ませるのは無茶だ、読みどおり「ちょうちょう」と表記すべし、という現代仮名遣い論者の主張が通って今日に至っているが、英仏語の発音の複雑さに比べたら、「てふてふ」を「ちょうちょう」など、物の数ではない。

 ただ古典文学などでは歴史的仮名遣いが認められていて、お正月に読み上げられる百人一首などは旧仮名遣いで書かれているが、小学生でも歌の方を先に耳から憶えてしまうので、「衣ほすてふ」を正しく「ころもほすちょう」と読める。
 昭和の詩人である安西冬衛が古典に入るかどうか分からないが、あの一行詩はやはり

  てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。

 でなければならない。
 間違っても「ちょうちょう」とか「だったん海峡」とか書かないでほしい。
 新仮名遣いでしか書けない私のような者でも、旧仮名遣いのその程度のかけがえのなさは理解できる。
 合理主義、便利・効率主義には限界がある。
 及び得ない領域がある。
                     (2010年)

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