「放蕩息子の息子」の帰郷

 ヨハネス・ピーパーの名著『余暇と祝祭』によると、ギリシャ語にもラテン語にも労働という語はなく、閑暇の否定形「暇なし」が「働く」を意味するのだという。
 スクールの語源はスコレー(暇)というから、閑暇と学芸の縁は深いらしいが、他方、「小人閑居して不善をなす」とか、「有閑XX」とかいうのもある。
 退職して有り余るMußeに恵まれたが、自分がはたしてそのどちらに入るのか心もとない。誰に気兼ねもなくテニスやオペラに熱中できるのも有難いが、感興の赴くまま好きなだけ読書に耽るというのも極上の楽しみである。
 そんな中で、Soma Morgenstern(1890-1976)という作家に出逢った。
 旧オーストリア領ガリツィア東部Tarnopol近く出身のユダヤ人ドイツ語作家で、つい10年余り前に(再)発見されたばかり。1935年に最初の小説を発表するが、38年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合で、命からがらウィーンを脱出してパリに逃がれ、41年アメリカに亡命。市民権を得て、76年に死ぬまで古巣ウィーンに帰り住むことはなかった。その間もずっとドイツ語で小説や自伝的回想を書き続ける。しかし英訳がアメリカで出版されることはあっても、ドイツ語圏ではほぼ完全に忘れ去られた存在になっていた。

旧ガリツィア(ピンクの線より東は今日ではウクライナ、西はポーランド)

 1990年代に入って、Ingolf Schulteという学者がMorgensternに関心を寄せ、息子がアメリカにいることを突き止めて会いに行った。そこで父親Somaの遺した膨大な原稿の山を発見、ドイツに持ち帰って、整理、編纂し、1994年から2002年にかけて11巻に及ぶ著作集を刊行した。
 あえて「(再)発見」と書くのは、1935年の処女作出版に際して出版社にこれを推薦したのがStefan Zweigで、原稿の段階で目を通したMusilやRothも高く評価していたし、出版後はHesseも新聞の書評で賛辞を惜しまなかったから、確かに「再発見」には違いないのだが、それ以後のほぼ60年に及ぶ完全な忘却・無視と、大部分が今回初めて日の目を見たという事情を考えると、むしろ「発見・発掘」と呼ぶ方がふさわしい気がするからである。
 彼はガリツィア・ユダヤ人として、家庭ではイディッシュ語を話し、一歩戸外に出るとポーランド語とルテニア語(ウクライナ語)という世界で育った。三歳の時からヘデル(ユダヤ人小学校)でモーセ五書をヘブライ語で学んだ。農場管理人をしていた父親は、敬虔なユダヤ教徒だったが、「ドイツ語を知らなければ、真の教養人にはなれない」と、二人の娘をも含む五人の子供全員に家庭教師をつけてドイツ語を学ばせた。ギムナージウムはポーランド系の学校に学び、ラテン語、ギリシャ語のほかに、ドイツ語、英語、フランス語を学んだが、ドイツ文学を初め世界の名作をもっぱらレクラム文庫で読破した。第一次大戦への従軍をはさんでウィーン大学に法律を学び、戦後に学位を取得した後は、1934年にユダヤ人として職を失うまで、Frankfurter Zeitungのウィーン特派員で、おもに文芸欄を担当した。
 小説では『奈落に散らばふ火花(Funken im Abgrund) 』が代表作で、『放蕩息子の息子(Der Sohn des verlorenen Sohnes)』、『流謫の地の牧歌(Idyll im Exil)』、『放蕩息子の遺書(Das Vermächtnis des verlorenen Sohnes)』の三部から成る。1935年に唯一出版されたのはこの第一部である。
 「放蕩息子」というのは、東方ユダヤ人社会の父権的峻厳を嫌い、自由と幸福を求めて西に向かい、受洗して、厳格な父親から勘当されるユダヤ人青年のことで、更に同じ改宗同化ユダヤ人富豪の一人娘と結婚した時、報せを耳にした父親は心臓発作で倒れる。予備役の将校だった彼は第一次大戦開戦と同時に召集され、東部戦線に送られて、生まれ故郷近くの戦場で命を落とす。死を予感しつつ、戦闘の合間をぬって書かれた「放蕩息子の遺書」には、洗礼を受ける前夜に見た審判の夢が詳しく記されており、これが特に重要な意味を持っている。彼の息子はそういう父親の人生にも思うところがあり、西欧近代の社会・文化・道徳にも幻滅し、同化ユダヤ人たちの生き方にも疑問を感じて、父親の道を逆に辿って東に向かい、正統派ユダヤ教徒に立ち戻ろうとする。父子二代にわたっての、「放蕩息子の息子」の帰郷の物語である。ちなみに小説の題はシェキーナ(Schechina)の思想を踏まえている。
 西欧近代の科学技術・思想・文芸の眩いばかりの輝きに魅せられると同時に、あまりにも世俗化が進んで、すべてが金銭的価値に還元される産業資本主義社会と、武力によって覇権を争う帝国主義・植民地主義の中に、文化や人間性を破壊する野蛮と退廃を感じ取って、ユダヤ的伝統への回帰を模索する東方ユダヤ人の懊悩が描かれている。欧米による植民地化を免れるために、自らを西欧化、近代化するしかなかったわれわれ日本人の問題とも重なって、興味深い。
 Morgensternの特徴は、敬虔な東方ユダヤ人と学識豊かな同化ユダヤ人の両面を兼ね備えていたことである。ユダヤ教の仕来りを厳格に守る信仰心厚い東方ユダヤ人の家庭に生まれ育ち、ユダヤ教の道徳や価値観を知識として以前に、祈りや祭儀を通して肌身に染みる形で身に着けていたが、幅広い西欧的教養を存分に吸収し、BenjaminやAdornoとさしで議論して、引けを取らぬ知性と見識を有してもいた。第二に、数多くの優れた芸術家や知識人との交友に恵まれたこと、第三に、幸福な幼少年時代を過ごしたハプスブルク支配の東ガリツィア多民族社会もDonaumonarchieそのものも砕け散ってしまい、失われた場所と時代の証人・語り部となってしまったことである。
 自伝的回想を三つ残していて、世紀転換期の東ガリツィアの農村と小都市タルノポールでの、平和で実りに満ちた幼少年期をユーモアと郷愁を込めて描いた『還り来ぬ年月---東ガリツィアの青春(In einer anderen Zeit. Jugendjahre in Ostgalizien)』は、ガリツィア版「昨日の世界」である。家庭や村での子供時代の生活も素晴らしいが、ギムナージウムでの優れたポーランド人教師たちとの、民族の違いや師弟の別を超えた交流が胸を打つ。客観的にはともかく、少なくともガリツィア・ユダヤ人にとっては、Franz-Josef一世の治世が、懐かしむに足る比較的平穏な世界だったらしいことは、よく理解できる。 
 個人的にはこの自伝的作品が一番好きだ。

東ガリツィアの青春

 同郷の作家Joseph Roth、12音音楽の作曲家Alban Bergとは特に親交が深く、それぞれとの交友を中心に据えた回想を遺していて、『アルバン・ベルクとその神々(Alban Berg und seine Idole)』には、Altenberg, Mahler, Adolf Loos, Karl Kraus, Schoenbergといった、Bergが尊敬してやまぬ「神々」のほかにも、Webern, Zweig, Musil, Werfel・・・などが綺羅星の如く登場して、1920年代から30年代にかけてのドイツ・オーストリアの文化、芸術、思想、社会、政治、風俗に関する、精彩に富んだ貴重な記録になりおおせている。Berg夫人Heleneの母親がFranz-Josef一世の(Katharina Schrattより一代前の)愛人で、彼女は皇帝の娘だった、お陰でBergは大戦中、前線に送られずにすんだ、といったゴシップめいた話から、Dr. Wiesengrund Adorno やAlma Mahler の言動・人柄についての諧謔味溢れる描写、Wozzeck成功の後、Bergが次のオペラの題材を探し求めてLuluにたどり着くまでの紆余曲折、Bergが不慮の死をとげるいきさつとBerg夫人の罪など、興味深い話題が引きも切らない。


 『ヨーゼフ・ロートの逃走と死(Joseph Roths Flucht und Ende)』では、高校生時代の最初の出会い(高校は別)から、1938-39年パリの小さなホテルに同宿して亡命生活の苦難を分かちあい、Rothの死を看取るまで、「友情とは大きな袋一杯の塩を共に舐めることだ」という中国の諺を地で行くような交友が語られている。Roth研究にとっても、同時代の記録としても、第一級の資料であるのみならず、ドキュメント風小説『亡命地フランスでの逃亡の日々(Flucht in Frankreich)』とともに、亡命者文学の知られざる貴重な文献であろう。

RothとMorgenstern(向かって右)

 欲を言えば、BergとRothをめぐる自伝的回想にだけは少なくとも、索引を付けておいてほしかった。

 彼はナチによって母親、兄姉を初め多くの親族を殺された。戦後ホロコーストの事実を知り、言語の危機に襲われる。亡命で読者を奪われたうえに、今やドイツ語は赦し難い仇敵の言葉となった。それでも彼の文学言語はドイツ語しかありえなかった。『第三の柱。ゼレート河畔のしるしと奇跡(Die Blutsäule. Zeichen und Wunder am Sereth) 』は、陵辱され虐殺されたユダヤ人同胞へのKaddisch (鎮魂の祈り)の書である。「第三の柱」としたのは、直訳ではあまりにも生々しいので、作者本人も加わった英訳本(The Third Pillar)に倣った。神が「雲の柱」と「火の柱」によって、エクソダスのイスラエルの民を昼夜にわたって導いた(『出エジプト記』第13章2節)、それに続く「第三の柱」である。『ヨエル記』第3章3節とも関わっている。Zeichen und Wunderも聖書にくりかえし出て来る表現で、ユダヤの民を守るために神が行う様々な奇跡のこと。この小説を書いた人は、きっと聖書しか読んだことがないに違いない、と思われるように書きたい、というのが彼の願いだった。

 しかし最後にMorgensternへの疑問も述べておかねばならない。
 1948年にイスラエル建国が宣言された時、彼はこれを「世界史上の奇跡」と呼んで寿いだ。この小説でも、ジェノサイドが転機となって、ユダヤの民がついに離散の運命を脱し、かつて「雲の柱」と「火の柱」が荒野で祖先を導いたように、今やBlutsäule(虐殺された600万ユダヤ人の血)が「第三の柱」として彼らを聖地イェルサレムへと連れ戻す、それが東ガリツィアの小さな町のジナゴーグでの「天界の使者」をも交えた法廷で下される判決なのだ。長編三部作も、東欧にまで押し寄せてきた民族主義・反ユダヤ主義の波から逃れるために、パレスチナ移住が計画されるところで終わっている。
西欧で差別と虐待を受け続けたユダヤ人だからこそ、土地を奪われ、生活を破壊されるパレスチナ先住民の苦しみに人一倍敏感でありえたはずなのだが、ヨーロッパに居場所を失った者にその余裕はなかったということか。
 イスラエルはその後、ユダヤ教の教えとは関わりのない酷薄な軍事国家となり、かつて西欧で自分たちが受けたのと同じ迫害をアラブ人に加えている。
 パレスチナ分割の国連決議181号(1947)から55年後の同地の状況を写した映画『ルート181』(2002)を撮った監督の一人、ユダヤ人のエイアル・シヴァン(1964~)は、レバノン侵攻(1982)に反対して兵役を拒否し、祖国イスラエルを去って、フランスに移住して、国家による犯罪や市民の不服従などをテーマとするドキュメンタリー映画を撮り続けている人だが、インタビューで、「シオニズムはユダヤ教の律法主義の伝統を否認するとともに、<離散の民> として生きてきたユダヤ人の <非-領土的> なあり方をも否認する」と言っている。

 Joseph RothはMorgensternみたいに熱心なユダヤ教徒ではなかったようだが、シオニズムを、西欧流のナショナリズムと植民地主義の模倣だとして、最後まで拒否し続けた。ヨーロッパ的野蛮には与せずとする、脱境界的ノマド=ユダヤ人の誇りと意地であろう。
                   (2007/2010年)

 (郁文堂の小冊子Brunnen Nr.444号(2007年4月)に書いたものを元にした。秋の中四国独文学会でMorgensternについて研究発表したのもその前後だったと思う。
 今では地図から消えてしまった旧オーストリア帝国の東の端ガリツィアに私が興味を持つようになったきっかけはカフカである。近代的な同化ユダヤ人だったカフカは、ガリツィア地方からやって来たイディッシュ語演劇とその劇団の人たちに熱病的な関心を寄せた。ユダヤ教への信仰心厚い東方の正統派ユダヤ人たちは、西方ユダヤ人がいかにユダヤ的伝統から切り離されたデラシネであるかを実感させた。カフカは自分をまさに「放蕩息子」か、その息子のように感じたであろう。この体験はカフカのその後の創作活動にとって転換点となった。Morgensternの三部作も、そのあたりとの関連で読むとおもしろいと思う。)

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