好村冨士彦さんの想い出

 たしか1994年の夏休み前だったと思うが、電話が掛って来て、ちょっと会いたいと言われた。
 自分は来年定年である。独文科に助教授がいるが、問題があって昇進は無理だ。東京や京都の知り合いに声を掛けてみたが、みな断られた。後任は身近なところから調達するほかない。とはいえ、年齢構成とか諸般の事情から、誰でもというわけには行かない。君は57歳なら、この先まだ6年ある。それだけあれば、まとまった仕事ができる、来る気はないか。
 そういったことを腹蔵なく話された、聞いていてシラケルほどに。
 誇り高い人間なら断っただろうが、私にその勇気はなかった。
 それくらい、ハードタスクのドイツ語教育から解放されたかった。
 しかし、退職者が後釜を決めるというのは、いかにも好村さんらしい常識や形式にこだわらないやり方で、これがルール違反であるのは明らかだったから、当然ながら内部に反発が出て、すったもんだしたらしいが、結局2年遅れて文学部に移った。
 在任期間は4年と短かったが、要領が分かって授業の仕方がのみ込めると、独文科の生活は教育・研究ともに実に楽しいものになった。
 何よりも学生を指導することがそのまま自分の勉強につながるところに充実感があった。自分の無知と無能をいやというほど思い知らされもしたが、自らの浅学非才を身に沁みて感じることが学問への第一歩だということも、ようやく分かってきた。

 好村さんは定年後も翻訳や著書を出されるなど、研究活動に衰えは見られなかったが、2002年に亡くなられた。ちょうど私がドイツへ出かけていた時で、葬儀には出られなかったが、帰国してから、奥さまだけが残られたご自宅に伺い、位牌に手を合わせた。享年71歳。あのひ弱わな体で、よく持ちこたえられたというだけでなく、立派な業績をたくさん残されたのには頭が下がる。
 年末に「偲ぶ会」があって、出席者が追悼の文を寄せた。以下はそれにいくらか手を加えたものである。

kippenする人

 私はなぜかkippenには、傾きながら帆走する、という意味があると思い込んでいて、好村さんが歩いている後姿を見かけるたびに、この語を思い出した。普段でもそうだが、特に鞄などを持って歩いていると、どうしても一方の肩が下がって、そんな風に見えるのである。
 ある時、移転前で大学がまだ東千田町にあったころ、車で帰りかけると、好村先生が例によってkippenしながら正門を出て行かれるのが目に入った。方向はだいたい同じだったので、よろしければご一緒にと、お誘いした。
 途中でこの話をすると、へーぇ、kippenにそんな意味があったかねぇ、と笑われて、若いころ結核を患って、片方の肺を切除したので、疲れてくるとどうしてもその方の肩が下がるのだということだった。

 私の誤解するkippenにこだわるわけではないが、好村さんは歩く様子だけでなく、生きる姿にも「傾きながら帆走する」を思わせるところがあった。
 昭和三十年代初めに若乃花(初代)という名横綱がいた。小兵だったが二枚腰で、土俵際まで追い詰められても、相手の寄りに傾きながら、弓なりにしなってこらえ、そのままうっちゃるか、でなければ、いつの間にか土俵中央まで寄り返して、鮮やかな出し投げで仕留める。
 病弱だった好村さんを力士に例えるほど場違いなことはないのだが、あの若乃花を思わせるところが彼にはあった。喘息で呼吸困難になり、たびたび集中治療室に搬送されるのだが、周囲の心配をよそに、その都度いつの間にか退院して、気がつけば、講演会を開いたり、新しい本を出版したり、反戦活動に飛び回ったりしている。
 そういう、倒れそうで倒れない、ねばり腰のほかに、もう一つkippenとつながるところがあったように思う。
 「傾く」という本来の意味でのkippen、ここからは少々こじつけ気味になるが、歌舞伎の語源となった「傾く・かぶく」は、人目につくような奇抜な身なりや言動をする、という意味がある。好村さんは奇異な振る舞いや言説で目立つようなところはなかったが、平均値からかなり外れたいところにいたのも事実である。非常識という意味ではない。むろん大学教授然としたシンシでもなかった。思想傾向はいわゆるアカだったかもしれないが、真っ赤ではなくて、ちょっとピンクが混じっていた。シャチホコばったイデオロギーに毒されない軟派の側面があって、それが私のような凡庸な同僚にとっては、ほっとさせられる好村さんの魅力だった。
 エルンスト・ブロッホやベンヤミンの優れた研究者であり、紹介者だった碩学について、低次元な話ばかりを書き連ねて申し訳ない気もするが、専門的なことについては、それにふさわしい人がいくらでもおられるので、私のような門外漢が口出しするのは控えるべきである。
 中島敦の『山月記』をカフカの『変身』と比較して論じる機会があって、その時、好村さんの『カフカと中島敦』を久しぶりに読み返し、教えられるところが多かった。ほんの短い論文なのに、周到に目配りが利いていて、論理は通っているが、けっして一筋縄ではなく、何本かの線がしぶとく絡まりあいながら綯い合わさっている感じだった。最初は、この程度ならなんとか打ち負かせるだろうと簡単に考えたが、出来上がったものを読み比べると、やっぱりそう簡単には行かないこと思い知らされた。

 好村さんは優しく寛容な人で、私など大いに見習わねばならなかったのだが、健康だと自分をついつい不沈艦のように思ってしまって、金満家と同じく、知らず知らずのうちに傲慢になるようだ。やはりkippenする人の方が自分の命をいとおしむように、他人の個性や考え方をも尊重するものであるらしい。
 私は定年退職してからようやく研究活動に身が入り始め、ほぼ毎年のように学会で口頭発表したり、どこかの雑誌に論文を載せたりするようになったが、その都度、もし好村さんが生きておられたら、この研究発表、この論文についてはいったいどんな感想を口にしてくださっただろうかと、懐かしいような悔しいような思いを抑えられない。

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