Angenehm überrascht!
ヴォルフ先生(Herr Dr. Wolf)と「こがね髪ゆらぎし
おとめ」たちの想い出

 1966年から68年まで二年間DAAD留学生としてドイツに学ぶことを許された。これは私の人生で最も貴重な体験になった。
初めの二ヶ月間はゲーテ・インスティトゥートで語学研修を受けることが義務付けられていて,憂鬱の種だった。

 最初に割り振られたドイツ語学院はロマンティック街道沿いの美しい中世の町ローテンブルクにあったが,日本人四人とアメリカ人二人は,「試験の成績が良すぎて,教えるクラスがない」という理由で,転校を命じられた。
 immer wieder angenehm überraschtという表現を,説明の際に所長が使ったのを憶えている。極東からやって来た日本人が試験でいつも良い成績を取るのに,われわれは繰り返し「快い驚きを味わされてきた」と言うのである。そんなに度々ならüberraschenにならないはずだが,などと思いながら聞いていた。当時,クラス分けの試験は筆記で,文法問題が主だったから,話すのが苦手な日本人でも好成績を収めるのである。

          Rothenburg ob der Tauber

 ミュンヘン経由で,そのあと更にもう一度,二両編成の小さな電車に乗り換えて,ようやくEbersbergの駅に着いた時には,心底がっかりした。駅前に役場,教会,薬局などが建ち並ぶマルクトプラッツがあるきりで,舗装してない埃っぽい道を15分ほど歩いた町のはずれに,我らがドイツ語学院はあった。その間,畑が広がり,民家が点在するという,典型的なバイエルンの田舎町である。

 しかし,暗欝な気分は明くる朝,教室に一歩足を踏み入れたとたんに吹き飛んでしまった。金髪碧眼の女学生ばかり八,九人がわれわれを待ち構えていたのである。ハリウッド映画以外で西洋のこんなに奇麗な妙齢の娘さんたちを間近に見るというのはむろん初体験だったから,いたく高揚した気分になった。
これぞまさにangenehm überraschtである。
 以後二ヶ月間すっかり目の人となって,聴覚の方は麻痺してしまった。もうドイツ語研修どころではない。「男女七歳にして席を同じうせず」と言った中国の賢者がいかに偉大だったかを,痛感させられる毎日となった。
 受け持ちはヴォルフ先生だった。半年ほど前にミュンヘン大学でブレヒトについての論文を書いて博士号を取ったばかり。われわれよりも若く,25か6だった。
 自己紹介させられたが,日本人の一人はKさんで,I大先生の愛弟子,これからベルリンに行ってTheaterwissenschaftをやるのだと話した。ブレヒトや現代演劇については特に詳しかった。「異化効果」や「非アリストテレス演劇」について淡々と,実に分かりやすく説明して見せた。もう一人,われわれの中ではリーダー格のWさんがいて,トーマス・マン研究だったが,当時最新鋭のペーター・ヴァイスのマラー/サド劇などをすでに読んで,映画も見ていた。アメリカ人の一人は30歳そこそこの数学者だったが,祖先がスイスのドイツ語圏出身ということもあって,ドイツの歴史や文化に関心があり,マンやヘッセを原文で読んでいた。

 ヴォルフ先生にとっても,われわれの到来はangenehm überraschtだったようだ。
 彼はすっかり喜んで,以後この組を文学クラスにすると宣言した。
 先ずわれわれにブレヒトのDer gute Mensch von Sezuanを買わせて,授業ではその場で生徒に役を割り振って読み合わせをやり,10ページほど行くと,今読んだ箇所に何が書いてあったか,要約をさせ,さらに中身についての簡単なディスカッションをやらせる。
 ローテンブルク組の6人は,アメリカ人も含めて,文法は出来るし,読む方も不得手ではなかったものの,耳はそれほどよくない。読み合わせをして,ただちに内容の要約と討論など最も苦手とするところだった。その点,金髪碧眼グループはお手の物である。文法的には少々間違っていてもしゃべりは流暢だし,耳は確かだった。筆記試験の答案は間違いだらけなくせに,要約やディスカッションとなると水を得たサカナ,いや金魚か,錦鯉か,色鮮やかな熱帯魚のように華麗に舞い踊るのである。
 われわれローテンブルク組はショックを受けて,夕食後にみんなで予習をすることにした。駅前のマルクトプラッツに町で唯一の居酒屋があり,そこに毎晩集まって読み合わせと,要約の予行演習をやるのである。ほんとうに勉強だけが目的だったかどうかはあやしい。Wiener Wurst とein großes Hellesで息抜きするというのが本音だったかもしれない。

 

 

 

 

 

 



 店にはいつも10人ほどの常連客がいて,だべったりトランプをしたりしていた。中に一人,色鮮やかな鳥の羽を帽子に挿して,卓上に置いたツィターを奏でる客がいた。皆に聞かせることを楽しみ,皆も演奏を楽しんでいた。映画『第三の男』で名手アントン・カラスがツィターを弾いて以来,世界的に有名な楽器になっていたが,実物を見るのも,間近に聴くのも初めてだった。見事な工芸品で,音色は庶民的で,センチにならない程度に哀愁を帯びていた。

             Zither

 You Tubeでアントン・カラス『第三の男』

Der dritte Mann: Anton Caras    

 こうしてどうにかブレヒトの山を越えたが,これに味をしめたヴォルフ先生は次にデュレンマットのPhysikerを選んで,同じやり方で授業を続けた。その前に,ブレヒトの『ガリレイの生涯』の話をして,『物理学者たち』との関連を解説してくださったように思う。ブレヒトもおもしろかったが,デュレンマットの芝居もそれに劣らず楽しかった。

 折からミュンヘンのKammerspiele劇場にデュレンマットのMeteorが懸かっていたので,先生が有志を募って連れて行った。興味を持って観に出かけたのはローテンブルク組だけで,キンパツヘキガンは一人も参加しなかった。彼女らは文学なんて興味がないのである。我がWさんが『魔の山』の話をすると,ドラクロワという立派な名前を持つフランスの綺麗なお嬢さんが,あの小説は読みかけたけど,退屈して途中で投げ出したわ,と感想を述べて,ヴォルフ先生を苦笑させた。まさに健康で陽気で屈託のないインゲボルク・ホルムたちである。だから魅力的,というと,トーニオ・クレーガーだが,まあ,そういうことだった。彼女たちが「文学クラス」の授業に文句も言わずに付き合っただけでも,賞賛に値すると言わねばならない。

 ゲーテ・インスティトゥートでのドイツ語研修は,窮屈なうえに退屈だろうと想像して憂鬱だったから,ヴォルフ先生の授業はまさにangenehm überraschtだった。
 授業はむろんドイツ語の勉強にもなったが,私にとってはそれ以上に現代ドイツ演劇への手ほどきになった。KさんやWさんと違って,田舎暮らしの私にはブレヒトもデュレンマットもペーター・ヴァイスも未知の世界だったから,すべてが新鮮だった。留学先がベルリン自由大学だったので,もしゲーテ・インスティトゥートでヴォルフ先生の授業に出会わなかったら,せっかくのベルリンに行きながら,オペラ座には通っても,芝居をあれほど熱心に観ることはなかったかもしれない。演劇学専攻でブレヒトに詳しいKさんが同じベルリンだったことも幸いだった。いろいろ教えてもらったが,Friedrichstraße駅の検問所を通り抜けて,Berliner EnsembleやDeutsches Theaterに連れて行ってくれたのもKさんである。

    Berliner Ensemble前のBertolt Brecht-Platz

 あれから44年,ヴォルフ先生も懐かしいが,金髪碧眼のお嬢さんたちのこともときどき思い出す。彼女らは今ごろ,どこでどうしているのだろう。

 「こがね髪ゆらぎしおとめ,はや老いにけん,死にもやしけん」(釦鈕[ボタン])と詠ったのは鷗外だが,鷗外が日露戦争の戦場で失くした「袖口のこがねの釦鈕」を買ったのは,「べるりんの 都大路のぱっさあじゅ 電灯あおき店」だった。

 その「都大路」Unter den Lindenに威容を誇るのがBrandenburger Tor,壁崩壊から数年後にベルリンを再訪した際,Zoo駅で100番のバスにとび乗ったら,思いがけずこの門の下をくぐって旧東ベルリンに入った。留学当時は西側の展望台から壁の向こうに望み見るしかなかったBrandenburger Torの下をである!!
 angenehm überrascht! だったが,当時一外国人留学生にすぎなかった者の胸にも,何か熱くこみ上げてくるものがあった。

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