洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家   南部先生

 晩唐の詩人劉希夷『代悲白頭翁(白頭を悲しむの翁に代わる)』の出だしである。
 音楽の授業に憧れながらやむなく取った漢文だったが、授業は楽しかった。特にそこで教わった漢詩は私にとって無味乾燥な受験生活の砂漠でのオアシスとなった。夜、勉強に疲れると、習った漢詩を声に出して読む。すると心が晴れた。
これらの詩や史記などの漢文を教えてくれたのが南部先生である。
 南部先生の記憶が強烈なのには、理由が幾つかある。
 一つは高校時代に一番ひどい成績を貰ったのが漢文だったからだ。確か五段階評価の下から二番目だった。高校時代だけでなく、学校生活の全過程を通して見ても、ダントツに悪い成績である。もう一つは、その同じ漢文の授業で指名されて、『代悲白頭翁』を朗読させられた時である。これは私のお気に入りの詩で、ほとんど毎晩、声に出して読んでいたから、一度も詰まることなく読み上げた。

  洛陽城東桃李花
  飛來飛去落誰家
  洛陽女兒惜顏色
  行逢落花長歎息
  今年花落顏色改
  明年花開復誰在
  ・・・
  洛陽城東 桃李の花
  飛び來り飛び去って 誰が家にか落つ
  洛陽の女兒は顏色を惜しみ
  行く行く落花に逢いて 長歎息す
  今年花落ちて 顏色改まり
  明年花開いて 復た誰か在る

 ティーンエイジャーのロマンティシズムにぴったりの詩である。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聞くたびになぜかこの詩を思い出したものだ。
 南部先生は教壇の上をゆっくりと行ったり来たりしながら聞いておられたと思うが、ひどい成績を取った生徒がそんなに見事に朗読できるとは予期しておられなかったらしく、感に堪えぬというくらい感心され、おおいなるお褒めにあずかった。

 この詩のどこがいちばん好きかと問われた。

  伊昔紅顏美少年
  公子王孫芳樹下
  清歌妙舞落花前

  これ昔紅顔の美少年
  公子王孫芳樹の下
  清歌妙舞す落花の前

と答えた。そこがまた南部先生の嗜好にぴったり合って、もういちど褒められた。うーむ、おぬし分かっておるではないか。そんなふうに言われたわけではないが、そんな感じがした。
ただ、その学期も通信簿の成績は元のままだった。やはり試験の出来が悪かったのだ。受験勉強の中では一つくらい成績の悪い学科を作っておかないと、精神の平衡が保ちがたいという事情があった。
 古文も南部先生の受け持ちだった。
 謡曲をやっておられて、一度だけ授業中に聞かせてもらったことがある。平家物語に由来する曲だったと思うが、正確には覚えていない。秋月先生とは声の質が違ったが、張りがあって、よく透った。何十年も経ったのに記憶に残っているくらいだから、よほど印象が強かったのだろう。
 漢詩に話を戻すと、高校時代の記憶力は相当なもので、今なら一週間前に読んだ本の中身でも記憶がおぼつかないのに、あの頃声に出して読んだ詩は今でもほとんど忘れていない。李白や杜甫の詩もいいが、『代悲白頭翁』のほかに当時好きだったのは、杜牧の江南春絶句である。

  千里鶯啼綠映紅
  水村山郭酒旗風
  南朝四百八十寺
  多少樓臺烟雨中

  千里 鶯啼いて 綠 紅に映ず
  水村山郭 酒旗の風
  南朝 四百八十寺
  多少の樓臺烟雨のうち

 この詩がどうしてそんなに気に入ったのか。たぶん鮮やかな色彩感覚、その絵画性と響きのよいリズム感に、若い高校生は惹かれたのだろう。
 「四百八十寺」は「しひゃくはっしんじ」と読む。「多少の樓臺烟雨のうち」の「多少」は、孟浩然『春暁』「春眠不覚暁(春眠暁を覚えず)」の「花落知多少(花落つること知る多少)」の場合と同じく、「数多く、たくさん」という意味、日本語の多少とは違う…そう説明された南部先生の声は今でも耳の奥に聞こえる気がする。

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