シューベルトの歌曲『鱒』の舞台裏
作詞者シューバルト(Schubart)と専制君主カール・オイゲン公、詩人フリードリヒ・シラー


 シューベルトの『鱒(Die Forelle)』はドイツ歌曲のなかで最も有名ものの一つ。
 元気よく清流を泳ぐ鱒が漁師の計略にかかって釣り上げられる様を、岸辺に立つ散歩者の視線で歌っている。

 You Tubeでシューベルト歌曲『鱒(Die Forelle)』

Die Forelle: Fischer Dieskau

 You Tubeでシューベルトのピアノ五重奏曲『鱒』

Das Forellen Quintett

 ドイツ語の歌詞は上の歌曲の映像に出て来るので、以下は大まかな拙訳。

  明るく澄んだ小川を
  気の向くまま喜々として
  鱒が泳ぐ
  矢のように素早く。

  私は岸辺に立ち
  澄み切った水の中を
  鱒が生き生きと泳ぐ様に
  見とれていた。

  そこへ釣竿を持った漁師が
  意気揚々とやって来て
  鱒が身を翻して泳ぐ様に
  虎視眈々。

  水が澄んでいる限り
  釣られる心配なぞない
  と私はたかをくくっていた。

  ところが漁師はしびれを切らせ
  川をかき混ぜ濁らせた
  と思う間もなく
  釣竿が震えしなり
  その先に鱒が跳ねていた。
  私は胸かきむしられる思いで
  見つめていた、欺かれたものを。

 シューベルトが作曲したのはここまで。
 元の詩は更に続けて、この鱒のように無邪気でいると、狡賢い男の企みに引っかかってしまうから用心しなさい、と若い娘たちを戒める教訓の一節が付け加わる。

  青春の黄金の時を
  謳歌している娘さんたちよ
  この鱒のことを忘れるな
  危険が待ち受けている、のんびりしてたらダメ。
  あなたたち若い娘はたいてい
  軽率、ほら、気を付けて、
  獲物を狙って男どもが近づいて来る
  ぼんやりしてると引っかかる、後悔してももう遅い。

 艶消しだが、作詞者がこんな蛇足を付け加えたのは検閲官の目を誤魔化す必要があったからだ。カムフラージュのためだった。
  作詞者シューバルト(Schubart, 作曲者Schubertとは一字違い)は反体制の詩人で政治犯、この詩を書いたときは牢獄に居た。領主の計略に引っかかって捕まってしまったのである。
 罠にはまった自分の体験をうたったわけだが、囚われの身である以上、暴君の悪だくみをほのめかす内容では発表が叶わないので、若い娘たちへの忠告という形で的をそらしたのである。


  『鱒』の作詞者シューバルト(1739-1791)

 もう少し詳しく書くと、作詞者シューバルトは18世紀後半のドイツ封建主義社会で自由・人権・平等を求めてヴュルッテンベルク公国領主カール・オイゲンの暴君的専制支配を辛辣に批判し、領主によってまず「国外」に追放された。[ヴュルッテンベルク(Württemberg)はバイエルン州ミュンヘンの西に位置し、シュトゥットガルト(Stuttgart)を中心とするあたり。現在はバーデン-ヴュルッテンベルク(Baden-Württemberg) 州の東北部]


    ヴュルッテンベルク領主カール・オイゲン(1728-1793)

 しかしその「外国」(最初はAugsburg(アウクスブルク)、後に神聖ローマ帝国皇帝領 Ulm[ウルム])からシューバルトはなおも「故国」ヴュルッテンベルクの無道な政治を痛烈に批判し続けた。

 その最たるものと言えば、領主カール・オイゲンが一方では尤もらしい道徳を説きながら他方では側室を増やし続け、ヴュルッテンベルク下層社会の貧しい若者3000人をイギリス植民地戦争の傭兵として売り飛ばし、その金で愛妾に高価な宝石を買って与えるといった無動ぶりだった。
 当然のことながらシューバルトはこれを痛烈に批判、風刺した。
 業を煮やしたカール・オイゲンは腹心を脅して手先に利用し、甘い偽の約束で皇帝直属の自由都市Ulm(そこは司法権が及ばない)からシューバルトをヴュルッテンベルク領内におびき出させて捕らえたのである。反封建の自由主義詩人シューバルトはHohenasperg(ホーエンアルペルク)要塞[写真上](当時は牢獄として使われていた)の塔の地下牢に閉じ込めらたのだった(1777年から10年間)。
 陰険な漁師の策略に引っ掛って釣り上げられた鱒は彼自身だった。
 牧歌的なドイツ・リートの背後にあるのは当時の悲惨な社会状況と無法極まりない圧政の現実である。
 『鱒』の作詞者シューバルトはあのシラー、ドイツを代表する自由主義詩人にして劇作家シラー[1759-1805](日本では『走れメロス』の原作者、ベートーベン第九『歓喜の歌』の詩人として知られる)に大きな影響を与えたことでもよく知られている。封建主義的圧制に抗して人権・自由・平等を求める熱烈な理想主義的文筆活動と政治行動とがシラーを刺激しただけでなく、シラーの処女作『群盗(Räuber)』に題材を提供したのもシューバルトだった。


Hohenasperg牢獄にシューバルトを慰問するシラー[右](1781)

 シューバルトとシラーはそれぞれシュトゥットガルトの北、あるいは北東の小さな町に生まれ、ヴュルッテンベルク同郷の詩人と呼んでさしつかえない。領主カール・オイゲンの圧政に苦しめられた点でも同じだった。専制支配の体験とシューバルトの批判的反骨精神とはシラーの思想や文学に強く反映されている。
 シラーの演劇の中に陰謀、策略、企みが数多く書き込まれているところには、領主の罠に掛って逮捕されたシューバルトの苦い体験が影を落としている。しかもシューバルト同様、軽率にも罠に引っかかる人物が多く描かれているのも興味深い。
 むろん謀略だの悪巧みだのはシラーに限ったことではない。先達の劇作家レッシングの『エミーリア・ガロッティ』にもあるし、ゲーテの『エグモント』もそうだ。シラーがむさぼり読んだシェイクスピアにも企みが数多く見られる。とはいえ、真面目一徹の理想主義者のように思われがちなシラー劇に見られる陰謀・悪巧みの多さは違和感を覚えるほどだ。いつの世でも政治の世界は駆け引きと謀略が主役ではあるが。(ちなみにPolitik(政治)を辞書で引くと政略・術策・策略などの訳語が出て来る。日本語の辞書で政治を引いてもそんな意味は出てこないが。)
 シラー文学の面白さは自由・平等・人権を求めての闘いもさることながら、むしろ主導権をめぐっての権謀術策を極める人間関係を描いたところにあるのではないかと思えるほどである。


          シラー(1759-1805)

 ところで、ヴュルッテンベルク公カール・オイゲンについてだが、箸にも棒にもかからない暴君の一面の他に、なかなか剛毅で英名なところもあった。それはアーベル (Jakob Friedrich Abel) という埋もれていた若い逸材を自分の眼で見つけ出し、自らの名前を冠した公国の士官学校(Hohe Karlsschule)に教授として迎え入れた(1772)ことである。時にアーベル(1751-1829)21歳。シラーはここで軍医になるための教育を受け、アーベルと出会った。


     シラーの師 Jakob Friedrich Abel(1751-1829)

 アーベルはルソーやヘルダーの思想に共鳴する進歩主義的な思想の持ち主で、折からの疾風怒濤(Sturm und Drang)を推進した一人でもある。なお、彼はその高い識見と学識を買われて、この学校が大学に格上げされる際、副学長に任命された。学長は領主のカール・オイゲンである。
 アーベルとシラーの出会いは運命的なものだったが、それが名うての専制君主カール・オイゲンによってお膳立てされたというのは何とも皮肉というか、不思議な印象を受ける。

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