「君が代」、されど・・・  秋月直胤先生

 三年間、一度も授業を受けたことがないのに、先生の苗字ばかりか名前までも憶えているというのは、よほどのことだ。
 秋月直胤先生。
 確かに「秋月」という姓は珍しいし、印象的だ。しかも音楽の先生。しかしそれだけでは記憶に残らない。
 秋月先生は、山崎高校入学式の日、教頭が式次第を述べた直後に壇上に上がり、「君が代」を歌われた。当時は日本中が貧しく、山奥の高校では、ピアノがあるのは音楽教室だけだった。講堂には足踏みオルガンすら置かれていなかった。 壇に上った秋月先生は、私が最初の一小節を歌うから、みんな続けて歌うようにと言って、「君が代」を歌い出した。
 その時の感動をどう言い表したらいいだろう。感動というより驚きと言った方がいいかもしれない。 ビロードのようにつややかで、やわらかく、澄んだ、よく透る声。人間の声というのはこんなにも素晴らしいものか。ベルカントという言葉はまだ知らなかったが、音楽的な声を生まれて初めてナマで耳にした瞬間だった。
 ラジオやレコードでなら聞いたことがある。 中学生の頃、アメリータ・ガリクルチとティト・スキーパによる『椿姫』からの二重唱「幸ありし日」や

 You Tubeで『椿姫』から二重唱『幸ありし日』

Galli Curci/Tito Schipaの二重唱『幸ありし日』    

ベニアミーノ・ジーリの「星は光りぬ」などをレコードで聴いて、人間の声の魅力は知っているつもりでいた。イタリアの名テノール、フェルッチョ・タリアヴィーニが来日して、オペラのアリアやイタリア民謡を歌った。NHKの放送を、受信機に耳をくっつけるようにして聞いた。
 とはいえ、当時はSPの時代、蓄音機はあまり上等とは言えず、録音も戦前のものだった。針の音も気になった。ラジオもおんぼろなうえに、放送電波は出力が弱く、サンフランシスコ講和条約の実況ほどではなかったが、音に波があり雑音が多くて、それほどはっきりとは聞き取れなかった。

  それが、これほど身近で、こんなに見事な歌声を聴いたのだ。頭のてっぺんからつま先まで電気が走った、というのは誇張ではない。 どうしたらあんな声が出せるのだろう。ひとりでいろいろ試してみたが、どうしてもうまく行かなかった。 秋月先生の授業を受けたかったが、当時は漢文、図画、音楽が同じ時間帯に並んでいて、その中からどれか一つを選択する方式だった。私は受験組だったから漢文を取るしかなかった。
 憧れながら、音楽教室から聞こえてくる声に耳を澄ませるのが精いっぱいで、三年間ついに一度も音楽室に足を踏み入れたことがない。

 秋月先生は東京音楽学校(現在の芸大)の卒業で、藤山一郎の一年後輩だった。関西一円にその名を知られていて、神戸放送で『冬の旅』全曲を歌われたこともある。先輩が高校のラジオで聞かせてくれた。
 指導者としても優れていて、在任中は、山奥の高校からでも毎年四、五人の生徒が関西の名門音楽大学に入った。声楽科だけでなくピアノ科にも。卒業後も楽壇で活躍する人たちがいた。
 どうしてそんなに素晴らしい才能が山奥の高校の教師なんかしていたのか。酒の上でのトラブルが原因だとか、いろいろ噂は聞いたが、詳細は知らない。私たちが卒業してから数年後に、山崎高校も何かそういった事情から辞められたと聞いている。その後のことは知らない。

 背は高くなかったが、髪はオールバックで、色は浅黒く、どこかあかぬけており、精悍な感じで、街などを歩いておられると、田舎町の風景から抜け出ていた。

 後年、私は何度かドイツに渡り、オペラやリサイタルで有名な歌手たちの歌を幾度となく聴く機会に恵まれたが、高校の入学式の日、古びた講堂の壇上で秋月先生が「君が代」を歌われた、あの時の総身の毛が弥立つような衝撃と感動を、二度と味わうことはなかった。
 お世話になった先生方には感謝の気持ちを今なお抱き続けているが、少年の日、感じやすい心に夢と憧れを搔き立ててくれた秋月先生への熱い思いは、年老いた今、以前にもましてひとしお激しく懐かしく燃え上がってくるように思える。

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