カフカ『訴訟』---「逮捕」パラフレーズ

ヨーゼフ・K. (エリート銀行員「さる大銀行の業務主任」)30歳の誕生日、朝8時。
K.は目覚めたばかりで、ベッドの中。
いつもなら来るはずの朝食が来ない。あたりの様子も何となく落ち着かないし、ヘンに思い、腹もへった(hungrig)ので、呼び鈴を押す。
(裁判所の下っ端役人) (ドアを半開きにして顔をのぞかせ)ベル鳴らしましたね?
K. え、あんた---だれ? 見たことない顔だけど。
 ゲリヒト(Gericht[裁判所と料理の両義あり])ですよ。
K. ゲ・リ・ヒ・ト---? りょっ、りょーり!? そりゃぁ---食事には違いないが---。しかしいま何時だと思ってるんだ、だれが朝っぱらから料理なんか。
 そのゲリヒトじゃなく、裁判所の方。
K. サ、サイ---バンショ---!?
 だって呼んだでしょ? 
K. よ---よんでなんかないよ! サイバンショなんて。呼ぶわけない。
 呼ばれたから来たんですがね。
K. そりゃ何かの間違いだろ。ぼ、ぼくが欲しいのは朝食、キマッテルじゃないか。
 チョー・ショク---?! (外の仲間に向かって)おーい、チョーショクだってよぉ! (笑い声)
K. なにが可笑しいんだ。朝起きて腹がへったから朝食をたのむ、そのどこがオカシイ? 当たり前じゃないか。君の方がよっぽどフザケてるよ。
 冗談なんかじゃありませんよ。ともかく早いとこベッドから出て、ちゃんと着替えを済ませて下さい。監督官がお待ちですから。---それにしてもそのパジャマ、ずいぶんと上等なのを着てますな。贅沢すぎますね。脱ぎ終わったらうちの方であずからせてもらいますからね。今後はもちょっと粗末なのを着るようにしてください。
K. ---。呆れてモノも言えないよ。この国は法治国家じゃないのかね。裁判所だか何だか知らないが、いきなり何の罪もない者のところへ押し入って来たと思ったら、今度はオイハギかね、信じられん!!

J.の傍白 (J.はK.の影[意識下のK.])
フフ---おれが呼んだんだよ、裁判所。朝食から食事、食事から料理(ゲリヒト[Gericht])、と連想がつながり、ゲリヒトの意味が横滑りして裁判所になったってわけさ。朝起きたばかりだからな。昼間のシャンとした意識が戻って来ないうちは、えてしてこういうとりとめのない連想やシニフィアンの戯れ、意味のスライド現象が起きるものさ。しかし寝ぼけ頭のダジャレ的思いつきにすぎないってわけじゃない。おれはもうウンザリなんだ、アタマに来てるのさ、銀行員の生活が。
 考えても見ろよ、来る日も来る日も銭勘定、金儲け、利潤、利益---。融資、投資、資金運用、為替差益、債券の売買、契約数アップ、資産家・資本家・投資家には腰を低くしてすり寄り、零細な債務者にはふんぞり返って返済を迫り、資金繰りに困っている中小企業には用心深く内情を査定して難癖をつけては貸し渋る。夜になると俗物権力者のハステラー検事のお伴で遅くまで飲み歩き、エルザとの週一セックスで欲望処理。いやはや---もうウンザリ、ゲーだ。
 ご本人はこの裕福で気ままな独身生活がお気に召して、このまま続けるつもりのようだが、ヤツの腹の底の底に隠れ住んでいるおれ様はもう堪らないぜ。
 ヤッコさんは腹がへって(hungrig)朝食を持って来させるつもりのようだが、あいにくおれは裁き(Gericht)に飢え(hungrig)てるってわけさ。
 「幸いなるかな、義に飢え渇く者は(Selig sind, die da hungert und dürstet nach der Ge-rechtigkeit)」ってイエス様も言ってるじゃないか。この際はまあ、幸せ(selig)ってことはないけどね。
 信心深い方じゃないが、おれだってキリスト教徒のハシクレ、小さい頃から『聖書』を読んで、てーか、読み聞かされて育ったんだ。最近はそれほど手に取る機会もないが、それでも銀行員なんてヤクザな商売やってると、ときどきはキリストさんの言葉を思い出して、そいつがこう、胸に突き刺さるってことがあるさ。特に今日は30歳の誕生日、人生の節目だしな。このままの生活続けてってほんとにいいのかって考えるぜ。
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富(マモン)とに同時に仕えることはできない。」
 「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通りぬける方がまだ易しい。」
 どちらもイエスの言葉だ。銀行員にはコタエルね。でも本当だなぁって思うこともあるよ。
 「行って、持ち物をみな売りはらい、貧しい人たちに施しなさい」と、お金持ちの青年に言ったこともある。裕福な暮らしを捨てる勇気のなかった青年は二度とイエスのもとには戻って来なかった。この青年は言ってみりゃK.のご先祖様ってわけさ。
 イエスは「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とも言っている。
 ヤッコさんパジャマ一つ取り上げられたぐらいで、そのうちきっとワーワー騒ぎ立てるだろうが、訴えられた相手もヒドイ目に遭うだろうけど、ヤツだってつらい思いをさせられることになるぞ。
 今朝のゴタゴタはみんなおれが仕組んでやらせたんだが、困るのはヤツとおれとがあんまりうまく繋がってないってことだ。おれが今ツブヤイていることはほとんどヤツの耳には届かない。おれの思いがなかなか伝わりにくいんだ。同じ一人の人間なのに。こんなことってアリエナイって思うんだけどな。
 うーん、もっとも---そう言や、先輩のグレーゴル・ザムザ君もそうだったな。G.とS.とに分裂してたっけ。
 G.の方は無残な虫の化け物に変身してしまっているのに、S.は依然として勤勉な社会人のまま、家族思いの孝行息子のままで、何とかベッドから起き出して、服を着かえ、一刻も早くセールスの旅に出掛けようと悪戦苦闘してたっけ。G.身体とS.意識が完全に分裂してた。
 体が突然虫になったのは、言ってみりゃ「しのぶれど色にでにけり—」ってやつさ。言葉や意志や意識より体の方が正直なんだ。内心セールスマン稼業が嫌で嫌でたまらず、むなしくてしょうがなかったんだが、親が会社の社長にした借金にしばられて勤めをやめるわけにもゆかず、両親や妹を養う義務を放棄するなぞ赦されないことだと思ってたし、「こんな生活、悪魔にでもさらわれるがいい」なんて内心愚痴りながら、そういう気持ちをひた隠しに隠し、懸命に抑えつけてガンバッテた。ところがガマンし過ぎってのはこわい、ひたすら胸の底に圧し隠していた思いがある朝フッとかなってしまったってわけだ。
 あの醜い虫のお化けは、呪われたセールスマン生活が「悪魔にさらわれた」姿さ。なにせ突然市民としての責務も扶養義務も放棄しちまったんだから、さすがのG.もカッコイイ虫になんかなれっこなかった。空しい苦役からの自由放免は反社会的、反道義的な犯罪だからな、自己懲罰装置が働いて、ウンゲツィーファー(Ungeziefer)なんて<絵にも描けない>イヤラシイ害虫に変身せざるをえなかった。ノミ、シラミ、ナンキンムシ、ゴキブリ…をいっしょくたにしたような想像上のバケモノだ。

  しかしザムザ先輩にも同情すべき点はある。「こんな生活、悪魔にでもさらわれるがいい」というセールスマン生活への呪いだけが本音ってわけじゃなかったことだ。
 彼は翌朝5時の始発列車に間に合うようにと目覚し時計を4時に設定しておくほどの勤勉無比で生真面目一方の市民でもあった。年老いた両親やまだ子供みたいな妹を放っておけなかったんだ、これも本音だ。
 だから支配人が様子を見にやって来た時も、虫の化け物の姿で這い出して行って、どうかクビにしないでくれと懸命に訴えもした。しかし声が出ない。虫の声帯ではピーとかギーとかいう不気味な音が出るだけで、人語を伝えるための発声は不可能なのだ。突然ドデカイ虫のお化けが這い出して来たと思ったら、口をバクバクやりながらゴソリゴソリと近寄ってくる。支配人さん腰を抜かして四つん這いで逃げて行った。グレーゴル先輩の会社や社会に対するウラミツラミが復讐を遂げた瞬間でもあったな。
 どうかこのまま勤めを続けさせてくれと訴えている(つもりの)S.も本気なら、醜悪な虫に変わり果てでもムナシイ辛労から逃れたかったG.も本音だ。二つの本音がぶつかり合ったらどちらかが消えるしかない。しかしS.とG.とへの分裂とはいっても、所詮は一人の人間、結局はグレーゴル・ザムザその人が消え去るしかなかった。
 うちの先生が書くものにはそういうパターンが多い。長くなるからやめるけど『判決』だってそうだった。
今から言うのも何だけど、われわれK.とJ.の運命も似たようなプロセスを辿りそうだね。
 K.の生き方、考え方はよく分かっているつもりだ。分かりやすく言や、ヤツの価値の基軸は善悪ではなく、優劣、もっと言えば強弱だ。陳腐なニーチェ主義者ってわけじゃないが、影響は受けてる。意識するとしないにかかわらず現代人は多少なりとも皆そうだが。現世的生を肯定する合理主義的な現代市民の典型さ。キレ者で野心家。30歳そこそこで大銀行の業務主任、頭取代理と出世を競いあうライバルどうしだ。人権意識も強いが権威主義的で、特に下っ端や貧乏人や弱者を見下す傾向が強い。イヤな性格さ。だから監督官から逮捕を告げられる恥ずべき場面に、日ごろハナからバカにしてアゴでこき使っている下っ端行員三人が呼ばれて、いわば証人みたいな形で居あわすよう手配されることにもなる。やがては裁判所から、これまでヤツが足を向けたこともない場末の貧しい労働者たちが住む安アパートの一室にある法廷に呼び出されて、ペンキ屋かと尋ねられると、「さる大銀行の業務主任だ」なんて威張って見せたところを皆からゲラゲラ笑い飛ばされるって羽目にもなるだろう---。
 ともかくヤツが今の独身貴族的な気ままな生活、肩で風切る銀行マンとしての生き方に疑問を抱いているフシはまず見あたらない。こんな生き方つづけていたらそのうち天罰が下るかもしれないなどとはツユほども思ってない。K.がハステラ―検事との親密な交際を知って胸を痛める頭取(Direktor)はそういう感覚を持った人物だ。後にK.が大聖堂に赴くきっかけを作るのが頭取であるのは偶然じゃない。
 天罰なんて考えは非合理で、法や人権を侵害するものだとヤツは信じて疑わないのだ。しかし、そう理屈通りには行かないさ。富み栄え、驕り高ぶる者はいつの間にか他人の嫉みや羨望の的となって憎しみをかい、鬱憤晴らしの対象にされたり、不満や憎悪の転嫁によってスケープゴートにされたりもする。それが神の怒りとも取れなくはない場合もママある。
 うちの先生は、西欧現代の平均的市民の問題を扱う小説だからというので、おれたちを、と言うのは、ヨーゼフ・K.だけど、西欧キリスト教社会に生きる普通の、ってことはつまり、それほど信仰心篤いってわけではないキリスト教徒にしたけど、自身はユダヤ人だから、西欧社会のそういう隠微なカラクリには敏感ならざるをえない立場なんだ。
 そのうえ、熱心なユダヤ教徒じゃないんだが、旧約聖書の創世記や預言者の章なんかよく読んでいて、深く身に染みついてもいるから、神との契約(律法)に叛く罪深い生活は神の怒りをかい、恐ろしい罰が下されるかもしれないなんていうユダヤ人的心理構造は受け継いでいる。
 無辜の犠牲者と罪ある者、この二つはまったく違うもののように見えるんだけど、どっかでビミョーに繋がっているところもないわけじゃない。ヨーゼフ・K.の場合がそれさ。K.は犠牲者の意識、おれJ.の方はどっちかってーと罪人って感覚。どちらかが絶対的に正しいってわけじゃないけど、正反対の二人が合わさって一人になっているんだから、ややこしいことになる。
先生と同じユダヤ人で2歳年長のシュテファン・ツヴァイクと7歳年下のフランツ・ヴェルフェルがそれぞれ1917年と37年に預言者エレミヤを主人公にした戯曲と小説を書くことになる。エレミヤは、神との契約を破って異教の神バールを信仰するユダヤの民は必ず神の怒りに触れ、恐ろしい災いが下るだろうと預言した。エルサレムを征服して神殿を破壊したバビロニアの王ネブカドネザルを、堕落しきったユダヤの民を罰するべく送られた神の使徒だとまで言った。

 ツヴァイクもヴェルフェルも肌で感じ取るんだな。彼らは実際にヒトラー/ナチスの台頭を目の当たりにし、連中を神の使徒とは思わないだろうけど、人類の罪が自らの上に招き寄せた災厄だとは感じるだろう。二人とも祖国を追われて、亡命先で死ぬことになる。特にツヴァイクはリオ・デ・ジャネイロで絶望から夫人とともに自ら命を絶つんだ。
 ---そんな先のことまでどうして分かるのかって? 人の心の底の底に隠れ潜んでいる霊魂には耳を澄ますと聞こえて来ること、見えて来ることがいっぱいあるのさ。てことは、うちの先生も同じってこと。この小説はナチやヒトラーを予見したものなんかじゃないという見方が支配的になるだろうけど、先生が第二次大戦後有名になり始めたころに信じられた通り、預言的な側面も確かにないとは言えない。それを全否定するのは間違いだ。あんまり強く主張し過ぎちゃ神憑り的になってまずいんだが。

 うちの先生は1917年にツヴァイクの戯曲が出るとそれを読んで感銘を受けるんだが、先生はツヴァイクやヴェルフェルみたいにストレートじゃない。現代西欧の平均的な市民がいかに欲望に駆り立てられ、地上的生に執着しているか、ユダヤ教やキリスト教の教えからいかに懸け離れた、いや、それと正反対の現世的仕組みの中に取り込まれて生きているか、その事情を知り尽くしている。K.の生き方はそれを映し出してるってわけだ。
 ツヴァイクのエレミヤ像に感動はしても、古代の預言者を通して現代に警鐘を鳴らすという手法には疑問を感じている。ヴェルフェルなんかとは本質的に相容れない。度し難い現代の合理主義的で世俗的な人間の視点や生き方にあくまでも寄り添う。自分や周囲の人たちの中にもそういう現世的価値観が息づいているいじょう、世俗的な平均的現代市民の地上的生へのあくなき執着をけっして蔑ろにしたりなんかしないというのが、先生の立場さ。これこそがGesetzの門前に立ちはだかる門番の正体ってわけだ。

 どんなに世俗的地上的な価値観にとらえられた現代人の心の奥底にも、それと対立するキリスト教的心情が僅かだが根強く隠れ潜んでいて、つねに密かに葛藤を起こしている、それを異化された手法で描きだすのが先生のモダン・アリズムの真骨頂さ。
 いざという段になると、我が身かわいさから言いわけ、言い逃れに走る意気地なし(フロイライン・ビュルストナーとの対話やがらくたの物置部屋での鞭打ちの場面)、分裂して自家撞着と自己矛盾を重ねる弱くて嫌らしいヨーゼフ・K、こいつはまさしくおれ自身だと、多くの現代人は思ってしまう、これもまたこの小説の人気の秘密さ。

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