丘沢静也訳『訴訟』(光文社古典新訳文庫)への不満
カフカ翻訳が見落としてきたこと

 光文社古典新訳文庫『訴訟』(2009年)の「訳者あとがき」で丘沢静也は「負けない翻訳」と「負ける翻訳」ということを言っている。「負けない翻訳」とは「表現者志向」で、詩的直感に基づき創意工夫を凝らした訳であり、「負ける翻訳」とは原典に対する敬意を失わず、あくまでオリジナル・テクストを尊重する「伝達者志向」の訳のことだという。特に目新しい説ではないが、丘沢の先輩で大物ドイツ文学者と見なされているお方の訳を礼を失しないよう批判するための苦渋の造語なのかもしれない。自分の訳を「負ける翻訳」とへりくだり、超大物先生の訳を「負けない翻訳」と表向き持ち上げて見せてはいるけれど、その実、そこに引かれた白水社版『審判』の訳がはたして詩的直感に溢れた「表現者志向」の「負けない翻訳」に当たるのかとなると、むしろ、誤訳を含んだ悪訳ではないかという印象の方が強い。そのような箇所が選ばれ配置されている。ほとんど頭脳犯的である。
 たしかに丘沢訳『訴訟』はローラント・ロイスたちによる史的批判版を踏まえ、章の配列などをマルコム・パスリーらの批判版に依拠するなど必要最小限の編集は行うが、できる限りオリジナルを尊重する「負ける翻訳」を目指してはいる。だが本質的な点では、どこまでも原テクストに忠実な「伝達者志向」を貫き通せているかは大いに疑問である。
 「訳者あとがき」は「翻訳者は、裏切り者」という見出しで始まり、訳者自らの「裏切り」を告白している。それは主として、ブロートが編集する以前の16の草稿の束を順不同の16分冊にして刊行した歴史批判版に対する「裏切り」のことで、ばらばらの16分冊のまま草稿としてではなく、批判版の順序で並べて作品に仕立て上げたことを指している。はたしてそれが「伝達者志向」への裏切りであり、「負ける翻訳」の趣旨に悖る振る舞いと言えるほどのものかどうか。
 そんなことは大したことではあるまい。
 「裏切り」云々と言うのなら、むしろもっと重要な問題があるはずだ。
 訳者が引く「翻訳者は、裏切り者」の原語(イタリア語)はTraduttore-Traditore!である。Traduttore-Traditoreは同音異義語ではないものの、ほとんどそれと見まがうばかりに似かよったシニフィアンがまったく異なるシニフィエ(翻訳者-裏切り者)を出会わせ、結び付けて、その二語の間に思いがけない意味関連を浮かび上がらせ、風刺的な効果を上げている。そこがミソなのだ。この諺はフロイトの『機知とその無意識への関連』という論文の中に引用されている。単なる駄洒落でも翻訳は難しいのだが、こういうワサビの利いた機知はさらに翻訳不可能である。「翻訳者は、裏切り者」というのは意味だけを訳していて、類似するシニフィアンの方は無視している、あるいは、無視せざるを得ないので、日本語訳ではシニフィアンどうしの近似は消え去って、ハッとするような意外性が引き起こす可笑しみや風刺性は失われてしまう。「翻訳者は、裏切り者」という訳そのものが原語を裏切っているのだ。訳者はその「あとがき」でわざわざこの諺を引き合いに出しながら、肝心のこの点には触れていないが、それは偶然ではない。
 というのも、カフカ・テクストでは、そして当然その翻訳においも、まさしくこういう機知的、掛詞的な言語使用が非常に重要な役割を果たしているのに、丘沢訳は(も)その点をまったく見過ごしているからだ。光文社文庫版『訴訟』が訳者の主張するような「伝達者志向」の「負ける翻訳」なのかどうか疑わしくなるのはその点においてである。

 丘沢訳『訴訟』巻末の「解説」と「あとがき」では「大聖堂で」の『掟の前』をめぐる聖職者とヨーゼフ・K.の対話から幾つか引用がなされている。その一つは、「書かれてあることに対する敬意が足りないぞ。物語を変えてしまっている」である。しかし、わざわざこれを引用して、この二人の対話に注目するのであれば、まさしくこの対話で最も問題なのがTäuschungという語の使われ方であることを指摘すべきであろう。

 教誨師は寓話を話すにあたって
 in den einleitenden Schriften zum Gesetz heißt es von dieser Täuschung:
 と言い、話し終わった直後には
 Von Täuschung steht darin nichts.
 と言って澄ましている。
 すかさずK.は愚直にも
 Es ist aber klar und Deine erste Deutung war ganz richtig.
と応じる。
 Deine erste Deutung(あなたの最初の解釈、あなたが初めに仰ったこと)が何を指すのかという素朴な疑問からすべては始まる。
 それは、寓話を話す直前に聖職者が言った
 in den einleitenden Schriften zum Gesetz heißt es von dieser Täuschung:
 以外には考えられない。
 <最初あなたはTäuschungについての話だって言ったじゃありませんか、仰ったとおりの話なんですよ、それを今になってTäuschungなんてどこにも書いてないなどと、手のひらを返すようなことは言わないでください>、と言っているのである。
 同じTäuschung でも話の初めと、その後の
 Von Täuschung steht darin nichts.
 とでは意味がまるで違うのに、K.の脳裏にはTäuschungというシニフィアン(言葉の響き)のみが焼き付いていて、シニフィエ(意味内容)の方はスルーされるという驚くべきことが起こっている。
 K.の思い込みは確かに信がたいものだが、Täuschungが一語で<思い違い/騙し>の両義的意味を持つドイツ語だからこそ起こりうることで、「思い違い」と一義的に訳さざるをえない日本語ではそもそもそんな思い込みなんて起こりようがない。翻訳で読むとこの箇所はつじつまが合わない。
 そのうえ「Deine erste Deutung(あなたの最初の解釈)」は日本語訳では、僧の「掟への入門書にはそういう思い違いについてこのような話が書かれている」を指すことになり、K.が「あなたの最初の解釈が正しかった」と言うと、「門番が男を騙した」とするK.自らの主張を否定することになる。論理的矛盾が起きてしまって、いくら正しく訳しても、この箇所はメチャクチャな日本語になる

 日本の翻訳者も研究者も(読者も)これを変だとも何とも思わなかった。そこから、連綿たる誤訳というか、誤読・浅読みの連鎖が続くことになったのである。

 さて、他方、いかにドイツ語でも、普通に冷静に聞いていれば(あるいは、読めば)、初めのTäuschungは
 „Täusche Dich nicht”, sagte der Geistliche. „Worin sollte ich mich täuschen?” fragte K. „In dem Gericht täuschst Du Dich”, sagte der Geistliche,
 というやり取りを踏まえて口にされるから、sich täuschen(思い違い)の意味で使われ、寓話の後では、K.が
 „Der Türhüter hat also den Mann getäuscht”
 と言ったのに反駁する形で言われるので、同じTäuschungでも täuschen(騙し)の意味になる。コンテキストから見てTäuschungの意味が話の前後でまるで違うのは明らかなのに、そういう意味の違いはいっさいK.の念頭に上らない。これはこの主人公を考える上で非常に重要なことではないか。
 意味内容を捨象して字面だけでこの箇所を読めば、あるいは聞けば、教誨師は最初はTäuschungについての話を紹介すると言っておきながら、話終わった途端にTäuschungのことなど一言も書かれてないと言うのだから、K.が大真面目に主張するとおり矛盾しているのは確かである。あくまでシニフィアン上での矛盾だが。
 ちなみにこれは一種のダブルバインドである。
 ダブルバインドと言えば、寓話そのものがそうである。門は開いている、つまりどうぞお入りください、というメッセージを発信している。ところが門番は、入ってはいけない、今はダメだと言う。つまり「門」は矛盾するメッセージを発信して男に二重拘束をかけているわけで、男は門の前に座ったまま身動きできないのである。
 さて、同じTäuschungでも、翻訳では初めを「思い違い」、後のを「騙し」と訳さざるをえないから、原文で起きるシニフィアン上の矛盾もダブルバインドも日本語テクストからは消えてなくなる。

 他方、聖職者の方はTäuschungのシニフィエにのみ関心が向いていて、シニフィアンの上の矛盾(字面上の矛盾)にはまるで気がついていないかのように振舞っている。これも教誨師の人柄、態度を考える上で重要なことだろう。

 Täuschungという同一のシニフィアンが<思い違い/騙し>という異なるシニフィエを持つことによって引き起こされる混乱、行き違い、ナンセンスな可笑し味というべきか、悲劇的なもどかしさというべきかは、邦訳からはすべてうかがい知れなくなる。

 なお、岩波文庫版『審判』だけは最初のTäuschungを「思い違い」、二つ目のTäuschungを「男が思い違いをするように、門番が騙した」と訳していて、かすかながら問題に気付きかけた気配はうかがえる。しかしその直後のDeine erste Deutungはすんなり「あなたの最初の解釈」と訳していて、それが何を指すのか、悩んだ形跡はなく、そう翻訳した場合の日本語テクスト上でK.が犯すことになる論理的矛盾に気づいているフシはない。「あとがき」にもこの箇所の問題性についての言及はない。


  Täuschungが一語で<思い違い/騙し>の両義的意味を持つドイツ語だからこそ成り立つことが、「思い違い」あるいは「騙し」と一義的に訳さざるをえない日本語では成り立たない
 同音異義語がからむこのカフカ・テクストはどんなに正しく訳しても辻褄の合わない文章になり重要なメッセージが抜け落ちる
 「伝達者志向」の「負ける翻訳」の唱道者ともなれば、「解説」なり「あとがき」なりでぜひ、この〈翻訳者お手上げ〉のテクスト構造を指摘して説明してほしかった。「書かれてあることに対する敬意」とはそういうことではないだろうか。

 関連する箇所における訳の問題点をもう一つ挙げておくと、
 „Der Türhüter hat also den Mann getäuscht“, sagte K. sofort, von der Geschichte sehr stark angezogen. „Sei nicht übereilt“, sagte der Geistliche, „übernimm nicht die fremde Meinung ungeprüft. Ich habe Dir die Geschichte im Wortlaut der Schrift erzählt. Von Täuschung steht darin nichts. “
 のdie fremde Meinungとは何か、という点である。
 歴代の翻訳はことごとく「他人(ひと)の意見」と訳している。だが、寓話は語り終えられたばかりで、しかもそこには教誨師とK.のほかには誰も居合わさない。さらにこの段階ではまだ誰の意見も解釈も紹介されていない。いったい誰の意見だというのだろう。
 まず思いつくのは、このfremdはテクストとは無縁のという意味ではないかということである。「本文から離れて自分勝手な意見をよく考えもせず口にするものではない」とたしなめている。だからこそ続けて
 Ich habe Dir die Geschichte im Wortlaut der Schrift erzählt.
 と、原テクスト一字一句の重要性が強調されているではないか。
 だがこの解釈にはübernimm(←übernehmen:受け取る・引き継ぐ)がネックになる。「受け取る」となると、やはり誰かの意見でないとおかしい。では誰の意見か。
 die fremde Meinungとは、聖職者自らが最初に口にした
 in den einleitenden Schriften zum Gesetz heißt es von dieser Täuschung:
 を指しているのではないか。
 K.を基準にすれば教誨師は他人(ひと)だ。日本でも、自分が困っているのに相手が軽い冗談などで対応すると、「他人(ひと)のことだと思って・・・」などと言うが、あれと同じだ。つまり聖職者はここで「私の言ったことを鵜呑みにするな」と言っていることになる。「確かに私は初めにTäuschungについての話だと断ったが、あなたはそれを字面だけでtäuschenと受け取っている。私があのTäuschungをどういうコンテキストで言ったか、よく思い出してくださいよ」、と言っているのだ。
 だがそうなると
 in den einleitenden Schriften zum Gesetz heißt es von dieser Täuschung:
 が翻訳では
 「掟への入門書にはそういう思い違いについてこのような話が書かれている」
 となるので、これを「鵜呑みにするな」と言えば、邦訳では「思い違いについて」という自らの前置きを僧自身が否定することになり、「門番が男を騙した」とするK.の主張への反論にならない。さっきの
 Deine erste Deutung war ganz richtig.(あなたの最初の解釈が正しかった)の場合と同様、またしても整合性に欠けた日本語が出来上がってしまう。
 繰り返すが、Täuschungが一語で<思い違い/騙し>の両義的意味を持つドイツ語だからこそ成り立つことが、「思い違い」あるいは「騙し」と一義的に訳さざるをえない日本語では成り立たない
 正しく訳しても論理的矛盾が生じる。

 それにしても、もし教誨師がK.の信じられないような取り違え・思い込みにここで既に気付いていたのだとしたら、どうしてもっとよく分かるように「私の言ったTäuschungを言葉の響きだけ聞いて、脈絡をよく考えもせず判断するのはやめてください。あれはtäuschenではなくsich täuschenの意味だったじゃありませんか」と言わないのか。meine Meinungと言えば済むところを、die fremde Meinungと言い、
 おまけに焦点のTäuschungを使って
 Von Täuschung steht darin nichts.
 と続け、ますますK.や読者の頭を混乱させ、話を難しくするのである。
 あなたが言う意味でのTäuschungなんかこの話には出てきませんよ、と言うつもりだろうが、それならもう少しよく分かるように言う言い方だってあるじゃないか、と誰しも思う。
 ここで第二の解釈は成り立たないと判断することもできる。教誨師がそこまで相手を惑わすようなことは口にしないだろうと考えるのが普通だからだ。
 しかし、寓話を語るに至る経緯を思い出してみよう。
 K.は教誨師に親しみを覚えて「あなたは私に対してとても親切です。裁判所関係の人たちの中であなたは例外です。あなたなら信頼できる」と言い、それに対して教誨師は「思い違いをしてはいけません」とたしなめて、そういう思い違いについての話として『掟の前』を語って聞かせることになっている。
 教誨師はK.が「とても親切(sehr freundlich)」だと言ったのを否定するだけのことはあって、ここでの教誨師の対応は確かに「とても親切」からは程遠い。
 これは田舎からきた男に対する門番の態度も同じである。
 ある程度解釈に踏み込んでしまったが、テクストを注意深く読んでいけば、テクストの表面を滑べるみたいに読み飛ばして、ただ日本語に移すだけの機械的作業に終始している限り見えないことがいろいろと見えてくるはずだ。
 ともあれ、「書かれてあることに対する敬意が足りず」、「よく検討もせずに(ungeprüft)」「他人(ひと)の意見を鵜呑みに」して誤訳・誤読・浅読みの連鎖を断ち切れないでいるのが日本のカフカ翻訳の哀しい現状ではないだろうか。正確に言えば、誤訳というより、テクストの深みにまで達していない上っ面だけの読みの連鎖、ということになるのだろうが。

 さて、では上に指摘したTäuschungのからんでくる箇所をどう訳せばいいというのか。
 英訳も昔はTäuschung(思い違い)はself-deceit、二つ目Täuschung(騙し)の方はcheatingとなっていたが、批判版に基づく1998年のBreon Mitchell訳ではどちらもdeceptionとなっている。deception には<騙すこと>の他に<騙されていること>の意味もあるようなので、少し無理はあるみたいだが、かろうじてこういう訳も可能なのだろう。だが日本語の場合、先ほど<翻訳者お手上げ>と書いたとおり、<翻訳不可能>である。
 しかし、ここは単なる言葉遊びに終わらない重要な意味が隠された箇所と思われるので、注でも付けて分かりやすく説明する以外に方法はない。
 いずれにせよ、そ知らぬ顔で通り過ぎるのは「書かれてあることに対する敬意」を忘れはて、「伝達者志向」を裏切るものである。
 ましてやTäuschung(思い違い/ 騙し)をめぐるカフカ・テクストの仕掛けそのものに、もし気付いてさえいないのだとしたら、翻訳者としてもドイツ文学者としても恥ずべきことではないか。
 この小説の語りについてはEinsinnigkeit(主人公の視点と語り手の視点との一致)ということが何十年か前に唱えられ、今なお繰り返し口にされるが、主人公は書き手カフカではないし、主人公と視点が一致するとされる語り手も書き手カフカとは重ならない。書き手カフカは全知ではないものの語りの背後にいわば影の語り手として身を潜め、ポーカーフェイスで、表の語り手に語らせ(騙らせ)ている、という趣きがある。読者は語り手(主人公)の視点に呪縛される仕掛けになっているので、語りの背後に隠れている書き手カフカが密かにテキストに潜り込ませた信号・合図・ヒントを見逃してしまいがちなのではないか。その意味でカフカの語りはまさにヘルメス的な騙りで、油断ならない。
 ティトレッリ描くところの裁判官の背後に描き込まれた「正義の女神」は、「勝利の女神」だの「狩猟の女神」だのとそこで議論されているが、もし「勝利の女神」なら肩甲骨のあたりから翼が生えているはずなのに、はっきり踵から翼が出ていると書かれている。それならヘルメスである。この小説の「正義の女神」がヘルメスの特性を備えていることが暗示されているのではないか。もちろん書き手カフカの単なる思い違いということはありうる。しかしカフカには『失踪者』で、松明の代わりに剣を振りかざす「自由の女神」像を描いてみせた前歴がある。これから主人公が飛び込んでゆくアメリカ社会の厳しさを暗示していた。「正義の女神」とヘルメスを合体させておいて、それを何食わぬ顔で「勝利の女神」とか「狩猟の女神」とかだと思わせるなど、いかにもヘルメスらしい悪戯であり騙しであろう。
 Täuschungをめぐる教誨師とK.の対話を論ずる際もこの観点を忘れないでおく必要がある。
 欧米の学者たちはカフカの難解さに苛立ち、すべての責めをテクスト編纂者Max Brodに押し付け、その恣意的な編集のせいにして、ついにはカフカの生原稿の写真印刷版を刊行するまでに至った。意地悪く見れば、ほとんど悪あがきである。日本の学者たちもその尻馬に乗って批判版、史的批判版に飛びつき、それらに基づく翻訳を次々に出版しつつある。
 しかしカフカの生原稿でなければカフカが理解できないと言えるほどのレベルにまで日本人学者たちの研究が達しているのかどうか、大いに疑問である
 私がここに指摘した程度のことはBrod版のカフカ・テクストからでも十分読み取れる。わざわざ批判版だの史的批判版だのを持ち出す必要などない。研究者が謙虚に真摯にテクストと向かい合えば見えてくることはまだまだ幾らでもあるはずだ。

 なお、文学とその翻訳におけるシニフィアンの重要性については当HPに掲げた論文
Traduttore‐Traditore! (翻訳者‐裏切者!) シニフィアンの二重の意味作用と翻訳の壁
 をクリックして、読んでいただけると幸いです。
 そこでは『田舎医者』のRosa(恋人の名前/少年患者の傷の色)という両義的言語使用についても指摘しております。

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