日蓮、田中智学、宮沢賢治、常不軽菩薩 [書きかけ]

 私は日蓮宗のお寺に生まれた(昭和12年:1937年)。
 江戸時代から続くその寺で生まれた最初の子供だった(そうだ)。
 しかも一人息子。
 なのに跡を継がなかった。
 日蓮宗は世襲制ではない、とはいえ、これはかなり異常なことだと思う。
 なぜそんなことになったのか。

 いろいろな事情が重なって何となくそうなったと思うが、理由のひとつとして宗祖日蓮がどうしても好きになれなかったことがある。

 「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という言葉によく表れているように、日蓮は日本の僧にしては例外的にファナティックで排他的であり、その上、お題目を唱えながら勢いよく団扇太鼓を打ち鳴らして歩く日蓮信者たちの振る舞いは騒々しく滑稽に思え、どうにもついて行けないものを感じていた。

 渡辺照宏著『日本の仏教』(岩波新書)を大学時代に先生から勧められて読んだが、これも日蓮には極めて批判的、というか、ほとんど冷淡、侮蔑的な扱いをしていた。さすがにちょっと不愉快だった。同じことは丸谷才一・山崎正和の対談「近代日本と日蓮主義」(『二十世紀を読む』所載)についても言えた。

 それでも日蓮のことがずっと心に掛かり続けていたのは、寺を継がなかったとはいえ、やはり私が日蓮宗の寺の生まれだったからだろう。

 日蓮に対して抱いていた疑問というか違和感の薄闇に一筋の光明が射し込んできたのは、山口昌男「宮沢賢治の祝祭空間」(『敗者学のすすめ』所載)を読んだ時である。60歳を越えてからだった。本が出たのは2000年だが、賢治についての対談そのものはその10年近く前の1992年に既に行われていた。
 渡辺照宏、丸谷才一、山崎正和ら教養主義者たちの、頭の冴えだけで心貧しい批判を弾き飛ばすダイナミックな論が展開されていて、目からウロコが落ちる思いがした。日蓮だけでなく、戦後は右翼の黒幕のように言われて、はなはだ評判の悪かった国柱会の日蓮主義者田中智学も見直され、智学が本当はどんな人間であり、どんな思想家だったかが論じられていた。また、半ばタブー視され、無視されて来た宮沢賢治と智学・国柱会との関係にも光が当てられ、日蓮、智学、賢治、さらには石原莞爾の思想的、身体的、律動的な繋がりが明るみに出されていた。


 そのキーワードの一つは「王法仏法冥合一致」ということである。
 王法とは現実世界を統べる法(支配の原理・政策・憲法)、仏法とは仏教、特に法華経(妙法蓮華経)の教えであり、この二つが一致する時、つまり、支配者が法華経の精神を理解し、その教えを治世に活かしたとき、この世界は理想の王土となる。浄土は死後、来世に求めるのではなく、自分たちの力で法華経の精神に基づいて今この現世においてこそ打ち立てるべきものである。
 仏法を政治において実現せよ、法華経の教えを現実世界に移せというのであるから、これはまことにラディカルな思想で、日蓮が何故あそこまで戦闘的、熱狂的な一面を持っていたか、なぜ(現世での救いを諦め、浄土を死後の来世に求めようとする)念仏信仰をあれほど激しく攻撃したか、何故幾度にもわたって権力者と衝突し、度重なる迫害を受けねばならなかったか、それは、日蓮の政治・社会の徹底した変革を目指す現世志向の熱烈な理想主義を見れば納得がゆく。
 これが「王法仏法冥合一致」(略して「王仏冥合」)ということで、日蓮も智学も賢治も、さらには満州国を拓いた石原莞爾でさえも、同じ理想に燃えていた。
 石原は満州事変の首謀者であり、大東亜戦争の原因を作った最大の戦争責任者でありながら、東条英機と対立していたためにGHQによって戦犯リストから外され、東京裁判で裁かれることはなかった。なぜこの自分を裁判にかけないのかと文句をつけたという。彼は賢治とほぼ同時期に田中智学の国柱会に入り、賢治がファンタジーの世界でイーハトーブという理想国の建設を夢見たように、現実の世界で満州国において理想国家の建設を目指した。無謀に近いが、ただの軍国主義的右翼ではなく、宗教的・思想的バックボーンに支えられた、非常に複雑でスケールの大きな人物だったらしい。石原莞爾は法華経の精神によって国を治める王仏冥合の王道を説いた。これは必ずしも皇道とは一致しない。東条英機を初めとする愚昧な取り巻きによって目を晦まされている昭和天皇に王仏一致の王道を切り拓く能力はないと見切りをつけていた。だからこそ天皇の統帥権を無視する行動にも出たのである。天皇は実務的な東条の方を信頼し、かつて北条氏が日蓮を遠ざけたように、皇道を王道[王仏冥合の政治]へと導こうとする超理想主義者石原莞爾を嫌った。

 智学が唱えた「八紘一宇」は後に東条英機によって捻じ曲げられて、日本によるアジア侵略とその植民地化、大東亜共栄圏のスローガンとして使われたが、「八紘一宇」のもともとの意味は、「正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇となさん」、つまり(法華経の精神に基づく)道義的世界統一ということである。肌の色の違いを超え、東西の言語、文化、風俗の隔たりを超えて、それぞれの民族が互いの特性を生かしつつ尊重し合いながら、法華経の教えの下に平和な統一世界を作り上げる、そういう気宇広大な超理想主義である。石原莞爾の満州国も、少なくとも本来の思想的次元においては、智学が言う意味での「八紘一宇」の精神に基づいていた。
 こういうことを大真面目に考え主張し実行に移す人間というのは、初めから通常人とは桁が違っていて、穏やかな教養主義や冷静な合理主義的理性ではとうてい捉えきれないのは明らかだであろう。日蓮や智学が誤解に曝されるのも無理はない。
 だが、怪物的知性山口昌男の手にかかると、(あさはかにも私が忌み嫌った)法華の太鼓ですら、機械文明によって画一化された現代社会からは失われてしまった原初的な祝祭的リズムを表している、ということになる。
 日蓮と田中智学に心酔していた宮沢賢治は大声でお題目を唱えながら団扇太鼓を打ち鳴らしつつ花巻の街を練り歩いたという。今でこそ誰もが愛読する賢治だが、当時の人たちの目には、はた迷惑な奇人・変人どころか狂人とすら映ったことだろう。物静かな教養主義者の視線ではとても攫み得ない凄みがここにはある。

 さて、賢治や莞爾の師田中智学の実像だが、彼は軍国主義どころか、戦争を批判し、既にあの時代に死刑廃止を唱えたほど生命尊重の、徹底した平和主義者だったことも知っておかねばならない。これはやはり法華経の教えをよく理解し、その精神が身に染みついていたからこそのことであろう。
 智学は十歳で日蓮宗の門をくぐったが、宗門のあり方に疑問を抱いて還俗し、在家のまま日蓮と法華経の教えを広め実践しようとした。彼が試みようとしたことで興味深いことの一つに「仏教夫婦論」があって、仏式結婚を推し進めようとしたことだ。「葬式仏教」から脱却し、死者のための仏教から生きた人間のための宗教に転換させようとする試みであったのだろう。

 仏教は徳川時代に寺院檀家制が敷かれ、寺は徳川封建制社会の秩序維持、政権安泰のための出先機関、政治権力の手先とされたまま、現代に至っている。「王仏冥合」の反対で、権力が仏法を組み伏せ、骨抜きにして、寺院を邪な王法(為政者・権力者の支配原理とその仕組み)の道具にしてしまったのだ。
 日蓮が目指したのとは正反対のことが現実となってしまった。
 田中智学が宗門を離脱し、還俗して、在家仏教を始めた理由がそこにある。いまだ檀家制に縛られ、葬式・法事を生活の糧とするような寺院にいては、真の仏道修行も布教も不可能であり、日蓮の教えを実践することからは程遠いと判断したためにほかならない。

 法華経の精神を最もよく具現する菩薩(悟りを求める人の意味にも、悟りを得た人の意味にも用いる)の一人に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)がいる。『法華経第二十 常不軽菩薩品』に出てくる菩薩である。この菩薩は誰にでも近づいて行っては、「私は深くあなたたちを敬います、決して偉ぶったり侮ったりはいたしません。どうしてか? あなたがたはみな心の中に仏性(ぶっしょう・仏となる素質)を持っていて、修行を積めばきっと仏[悟りを開いた人]になれるからです」と言って相手を礼拝したという。
 まさしく『法華経方便品』に、「衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」と言われている諸仏世尊の一人であろう。

 「草木国土悉皆成仏」というのはいささかオーバーな表現だが、人はみな努力すれば「仏(悟りを得た者)」になれる仏性を生まれつき備えている、というのが、仏教、特に法華経の教えであり、常不軽菩薩はそのことを広く世の人々に知らしめ、仏への道を説こうとしたのだ。しかし、見知らぬ人が突然近づいてきて頭を下げ、「あなたも仏になれます」などと言いだす、言われた側にしてみれば、面くらって煩く感じ、ほっといてくれと言いたくもなる、時には罵詈雑言して追い払い、石を投げたという。それでも常不軽菩薩という修行者は遠くに逃げてからもなお相手を礼拝して「あなたがたはみな心の中に仏の素質を持っています、修行を積めばきっと仏になれるのです」と繰り返した。

 東京都渋谷区代々木の立正寺(法華宗)にある常不軽菩薩像

 興味深いのは日蓮が見習いたいと願い、最も尊敬した菩薩の一人がこの常不軽菩薩であったことだ。確かに彼は打擲され投石されるばかりか、何度も流罪に遭い、刑場に引かれてあやうく斬首されそうになったことすらあったが、法華経の精神をこの世界に広め、実現するためには決して怯むことがなかった。法華経のためになら命を落としてもいいと言っていた。

  日蓮上人と田中智学先生の命とあらば、たとえシベリアの凍原の果までも赴くことをいとわず、と言うほどこの二人に傾倒していた宮沢賢治にとっても、常不軽菩薩は理想の生き方で、有名な『雨ニモマケズ』の

 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

の「デクノボー」、この人はそうとうにおせっかいな感じもするが、この「デクノボー」は常不軽菩薩がモデルだと言われている。(菅野博史『法華経入門』、森本正昭『響き合う共生社会へ:障害者を支援するための本』など)



 これは牽強付会などではなくて、賢治は実際に「不軽菩薩」と題する詩も書いている。

 あらめの衣身にまとひ
 城より城をへめぐりつ
 上慢四衆の人ごとに
 菩薩は礼をなしたまふ

 (われは不軽ぞかれは慢
  こは無明なりしかもあれ
  いましも展く法性と
  菩薩は礼をなし給ふ)

 われ汝等を尊敬す
 敢て軽賤なさざるは
 汝等作仏せん故と
 菩薩は礼をなし給ふ

 (こゝにわれなくかれもなし
  たゞ一乗の法界ぞ
  法界をこそ拝すれと
  菩薩は礼をなし給ふ)

 さらにもう一つ興味深いことがある。
 この常不軽菩薩を修行者の理想と仰いだ僧がもう一人日本にいたことで、しかもそれが越後の良寛であることだ。良寛は師の国仙和尚から授かった印可の偈と『法華経』一巻を生涯肌身離さず持ち歩いていたというが、『法華経』の中でも特に常不軽菩薩に深く傾倒し、この菩薩を讃える詩を幾つも詠んでいる。
 まるで正反対、対照的とも思える日蓮、良寛という二人の高僧がともに、文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩、観音菩薩らに比べると地味でいささか愚直すぎ、カッコワルクさえ思える常不軽菩薩を修行者の理想と仰いだというのは、何ともほほえましく、興味深いばかりか、心をワクワクさせられるほどのことではないだろうか。

 ちなみに「常不軽菩薩」というのは、仏典300巻を漢訳した有名な鳩摩羅什(344-413)の訳で、それ以前の訳では「常被軽菩薩(じょうひきょうぼさつ)」となっていた。「不軽」だと<決して相手を軽蔑しない>の意となり、「被軽」だと<常に人々から軽蔑される>の意味となる。サンスクリット語の原典に照らしてみると「被軽」と訳す方が正しいらしい。どちらかというと、常に人々から軽蔑される菩薩、つまり「常被軽菩薩」の方が語学的に正しいというだけでなく、面白く、深いのではないだろうか。
 人は誰でも自分勝手に、自己中心的に、現世の利益を追い求めてエゴイスティックに、要領よく生きようとする。その方が損をしないですむ、儲かるし、出世もできる。あなたの中にも仏性が宿っている、一日も早くその仏性に目覚めて、自分のことよりも先ず世のため他人のためを考えて行動し、自分を犠牲にしてでも他人に尽くす生き方を選びなさい、などと言われるのは、たいていの者にとっては迷惑至極である。言う事を聞いたら身の破滅にもつながりかねない。そんなことを説き勧める人は生きてゆく上で邪魔であり、そんな人を忌み嫌い、迫害するのは、ある意味、当然かもしれない。少なくとも変わり者として軽蔑され、無視されるだろう。仏法の実践は現実社会を巧妙に渡り歩くこととは矛盾し、出世栄達の妨げになるから、法を説き勧める者は常に軽んじられ迫害を受ける。「常被軽=常に人々から軽蔑される」菩薩というのはまことに皮肉な真実を含んでいると言わねばならない。

 ともにこの菩薩を理想と仰いだ二人の名僧のうち、良寛は庶民から愛され親しまれたようだが、日蓮は良寛と違い、法華経の真実なることを説き、この仏法に王法(支配の原理・政策・憲法)を合致させるべく努めるよう、積極的に世の為政者たち、権力者たちに働きかけてやまなかったため、様々な迫害を耐え忍ばねばならなかった。まさに常被軽菩薩である。しかしその日蓮も弱者である庶民に対しては優しかった。彼が信者たちに送った書面は細やかな心遣いと愛情にあふれており、受け取った者たちが大切に保管しておいたため、その多くが現代にまで残されている。良寛の書も授けられた者たちから宝物のように大事に保存されたが、どちらも素晴らしいことではないだろうか。

 キリスト教徒の内村鑑三が「代表的日本人」として、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の五人をあげていることはよく知られているが、権勢高い仏敵に対しては仮借なかった同じ日蓮が、貧しい者、悩める者には、至って柔和な人で、信徒や弟子たちに宛てた手紙には、実に穏やかな気持ちが息づいていて、『立正安国論』の火を吐くような語調とは大きな対照をなしている、といった趣旨のことを述べている。

 更に内村は最後のところで、日蓮の内には幾分か精神異常の気味が宿っていたかも知れない。しかし、これはすべての偉大なる人間に宿っているように思える。その異常部分を剥ぎ取れば、そこには一個の注目すべき人物、世界中でもっとも偉大なる人の一人が我々の目に見えてくる。これ以上に独立的な人は我が国にいない。日蓮はその独創性と独立心とによって、仏教を日本の宗教とした。日蓮宗のみが純粋に日本的であって、他のすべての宗派はその起源をインドに、あるいは中国に、あるいは朝鮮に持っている。日蓮は受動的、受容的な日本人の間にあって一つの例外であり、このような人のみが、一人国家の脊椎骨たりうる、といったことを書いている。
 内村はマホメットを引き合いに出しているが、彼自身がプロテスタントだったことを思い起こすと、彼の脳裏には日蓮がマルティン・ルターと重なり合っていたのかもしれない。日蓮が鎌倉時代の間違った仏教のあり方を批判し、法華経こそが真の仏教の教えであることを説いてやまなかったように、ルターも堕落したローマ・カトリックを批判し、『聖書』を庶民にもよく解るドイツ語に翻訳することで、キリスト教を真にドイツ人の宗教とした。偉大な人物につきものの「精神異常」というのは、日蓮のみならず、田中智学や宮沢賢治、石原莞爾、マホメット、マルティン・ルター、いや内村鑑三その人についてさえも言えるだろう。
 「悟り」とか「仏」とかいうと何か濁世を超越し達観して静かに微笑をたたえつつ鎮座する人を想像しがちだが、自分が正しいと信ずることを千万人といえども我ゆかんの覚悟をもって邪に立ち向かう生き方も仏知見の道であろう。日本の仏教者の中でひときわ日蓮に顕著なこの姿勢は日蓮宗の信者に受け継がれ、岡田資(たすく)陸軍中将の生き様にそれが強く感じられる。

 日蓮宗の寺に生まれ、日蓮があまり好きになれず、いろいろとそれ以外の事情も重なったためもあったが、何となく寺を継がなかった私が、後期高齢者になり、死が身近に迫る頃になってようやく、山口昌男や井上ひさし(宮沢賢治についての劇や発言多数)といった直接宗教とも日蓮宗とも関係のない方たちの本を読んだおかげで、日蓮の偉大さに少しばかり気づかせられたというのは有難いことである。
 私の両親は、もし自分たちの老後の安泰を第一に考えたのであれば、私を仏教関係の大学に入れて、僧侶の修行をさせ、卒業後に寺を継がせるという方法をとったであろう。しかし、そういう道は選ばなかった。一人息子の私に期待して、学問への道を歩ませた。そのため年老いてから非常な苦労を背負い込むこととなった。それを思うと胸が痛むし、悔いがある。
 しかし「私のエンディングノート」にも書いたとおり、今の仏教はもはや宗教ではない。寺は葬儀会社と何ら選ぶところがない。寺以外のところにこそ仏教の教えを生きる真の道がある、と思っている。田中智学や宮澤賢治も在家信者の生き方を貫いたのだった。
 それに私はまだ未熟者で勉強が足りず、法華経の貴さが今ひとつよく理解できていない。たとえ理解し得たとしても、私は日蓮や智学や賢治とは違って、あんなに熱狂的な信者にはとうていなれない。信ずるということは、疑念を捨て去る、もうそれ以上は考えないということだから、思考停止を意味する。とことんまで疑いを捨てずに考え続けるのが学問の道だから、信ずることは偉大だと認めはするが、考えることと信仰とは相容れないのである。

参考にした文献

「宮沢賢治の祝祭空間」「天皇を相対化した軍人(石原莞爾論)」(いずれも『敗者学のすすめ』所載) 山口昌男
イーハトーブと満州国 宮下隆二
戦後の田中智学論を糺す 田中智学門下青年協議会編
代表的日本人 内村鑑三
法華経 上・下 植木雅俊訳
仏教、本当の教え 植木雅俊
思想としての法華経 植木雅俊
法華経入門 松原泰道
法華経入門 菅野博史
仏教超入門 白鳥春彦
仏教は何をしてくれるか 島田裕巳
小説 日蓮 上・下 島田裕巳
日蓮 その生涯と思想 久保田正文
日蓮入門 末木文美士
心が温かくなる日蓮の言葉 大平宏龍
宮澤賢治に聞く 井上ひさし
ながい旅 大岡昇平 (岡田資陸軍中将を主人公とするノンフィクション)
ほか

後記

(私の名前は智孝、「ともたか」と読むが、僧侶となった暁には「ちこう」と読ませるつもりでの命名だったのだろう。(おかげで「ちこう、ちこう、苦しゅうない」とか「ちこう寄れ、ちこう、苦しゅうない」とか、からかわれたが。)この名前が智学から来ているのかどうかは分からない。父の口から田中智学の名前を耳にした記憶がないので、たぶん無関係なのだと思う。西暦6世紀の中国に天台宗の実質的な開祖とされる智顗(ちぎ)という高僧がいて、智という漢字は仏教では尊ばれ、僧の名前にもよく使われる。いずれにしても私の場合は甚だしい名前負けだが。)

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