「景観野蛮国」日本

 今年(平成24年)の1月末から伊豆に移り住むようになった。
老齢に合わせてバリアフリーの平屋であることと、海と大島を望む眺めが取り柄である。
 だが、残念なことに家の前方右寄りのところに電柱が立っていて、目の前を電線が何本か景色を切り裂く形で横切っている。目障りなことおびただしく、気になり始めると腹まで立って来る。

    相模湾と大島の眺望を切り裂く電柱と電線
   (電線工事後の眺めはあらためて載せるつもり)

 ついに堪りかねて東電に連絡した。
 来てくれたのは30くらいの感じのよい青年で、下の二本はNTTとケーブルテレビの線だが、それらを下げることが出来れば、東電の電線も一本にまとめて下げることが出来る。先ずそれらの会社に交渉してみましょう。但し、一番上の線は電柱どうしを倒れないように固定するためのものなので、それを取り外すためには、電柱から斜めのワイヤーを地面に下ろさねばならない。道路にかかるので地権者である国の許可が必要である、実費が8万円ほどかかりますが、とのことだった。一週間ほどして再び、今度はNTTとケーブルテレビの関係者を伴ってその青年がやって来て、両者は1メートル余り下げるのに異存はない、費用は要りませんと言った。青年は東電だけ費用を請求するのは気が引けるので、上の部署に相談してみますと言って帰ったが、結局その後、8万円ほどお支払い願わねばならない、工事は8月か9月になると、「上の部署」から電話で連絡してきた。
 むろん電柱は移動してくれないし、電線等を地中に埋めるなど莫大な費用がかかるので、お話にならない。電柱は我慢するしかない。電線の移動だけでも今より少しはましになるので頼むことにした。それだけで経費8万円。
 電柱・電線によって景観を損なうというのは明らかな権利の侵害である。本来なら電力会社の負担で善処するのが筋であろう。原発事故は東電による人災であるにもかかわらず、損害賠償や補償のツケは国民に支払わせるという厚顔無恥と根は一つである。

     名勝伊豆高原桜並木も電柱・電線でズタズタ

 市役所に問い合わせてみると、伊東市の都市計画条例に電柱電線からの景観の保護などは書き込まれていないという。「このケースだと、ご本人様にご負担いただくしかない」との回答だった。
 私は、ドイツなどの例を挙げて、伊豆のような特に風光の優れたリゾート地は、電線等を地中に埋めるとか、都市計画条例の中に規定して、今後その方向に努力すべきではないかと言ったら、「貴重な御意見を賜りまして有難く存じます。ぜひ参考にさせていただきます」と、このような場合に言うべく定められているらしい丁重な決まり文句で電話は終わった。
 いつかはそうなるかもしれないが、私が生きているうちに実現するとも思えないので、この際は自分で費用を負担して、電線を下げてもらうしかないと観念せざるを得なかった。

 「景観野蛮国」日本に生きる者の定めである。

 8月に入ってようやく、道路にワイヤーを下す許可が降りたので作業に取り掛かれるが、先ず伊東市の東電事務所まで費用を支払いに来てもらいたい、10日までに払い込んでもらえれば9月半ばまでには工事を完成させることができる、との連絡があった。額は聞かされていたとおり8万弱。
 工事よりも先に支払いを要求するというのは社会の通念のみならず慣習や常識にも反することだ。家の改修などの場合、先に工事費用の支払いを要求する会社などない。もしあったら、たちまち契約は破棄され、そんな会社はあっという間に倒産するだろう。費用は工事の仕上がり具合を確認してから支払うのが当たり前である。東電はいったいどういう感覚なんだろうかと、一応クレームをつけたが、大企業相手に喧嘩して見ても勝ち目はないので、おとなしく請求額を前払いするしかなかった。

 工事はワイヤーを地面に下ろすのと、残った二本の電線を一本にまとめて1メートルほど下げるのと、二回に分けて行われた。作業員たちは皆まじめで礼儀正しく、誠意をもって作業に当たってくれた。そのことには感銘を受けた。
 東電は原発事故やそれへの対応の点できわめて厳しい批判に曝されているが、これは東電の機構や上層部の人たちに関わることで、一般の社員の方々は皆おおいに信用が置けるようである。
 さてその結果だが、それは下の写真のとおりである。


      工事後の眺望、最もましになった眺め


    工事後もあまりスッキリしたとは言えない眺め

 見違えるようにさっぱりした、いやぁーお見事! とはお世辞にも言えない眺望だが、作業員たちは上(企画部)の指示に従い、あらかじめ定められた計画や図面に従って精一杯仕事をしたのであるから、彼らに文句は言えない。
 工事責任者は作業終了後に出来栄えを確かめるため、我が家の庭に上がって来て写真を撮ったが、結果については彼自身も今ひとつといった感じて、あまり満足していない様子だった。私の不平に耳を傾け、上に伝えておきますと言ったが、電柱や電線の配置・繋がり具合から見て、技術的にこれ以上はたぶん無理なのではないか、というコメントを残してを去って行った。

 

 それから2、3日して計画責任者の方から電話があり、やはり同様の意見を述べたが、実際に出向いて自分の目で確かめ、これ以上のさらなる改善が技術的に可能かどうか検討してみましょうということだった。
 むろん更に電線が下がって景色が良くなるに越したことはない。技術的に可能ならぜひそうしてほしいところだが、現代の日本にいて、個別的な我が家の景観問題にあまりこだわり過ぎるのも何やら空しいところがある。
 今後30年、あるいは50年たったら、電線を地下に埋めるのは当たり前、電柱をを立てまくり、クモの巣のように電線を張り巡らして景観をズタズタに引き裂くのはこの上なく野蛮な振舞いである、といったことが常識となる日が来るだろう。いや、ぜひそういう時代になってほしいものだ。
 ちなみに電柱は日本の狭い道路の交通事情をも更にひどいものにしており、児童の通学路などではその危険と弊害は目に余るものがある。このことは電力会社の人もよく肝に銘じてもらいたい。
 各都市の環境課や都市計画課にも、もっと周到でマットウな市街・道路計画や景観条例が出来、電力会社も住民の安全のみならず快適な生活環境や都市の景観にも配慮した電力供給システムを構築することが求められる日が来ることを願って、この一件はこのあたりで幕引きとした方が賢明なように思えて来た。何よりも後期高齢者という自分の年齢のことを考えると、他にもっと真剣に取り組まねばならないことは山ほどあるからだ。

 とはいえ、こういう問題提起をしつこく発信し続けなければ何一つ変わらないことも事実であるから、引き続き書くことにする。

 20年ほど前、広島に住んでいた頃、講演のため来広したドイツの大学教授を数人の同僚とともに案内して比治山(広島市南区の小高い山)に登ったことがある。地元では見晴らしがよいと 評判の丘だったが、眼下に広がる市街地を一望した教授は
 „Schweinerei, Wohnungswüste“
と呟いたものだ。
 「汚くて無秩序、家々からなる砂漠」という意味である。
Schweinereiは「ムカツク、サイテー」といった感じである。
 われわれに聞こえないよう小声で言ったつもりだったかもしれないが、近くにいる何人かの耳にははっきりと聞き取れた。
恥ずかしい思いがした。
 われわれは皆ドイツに何年か留学した経験を持っていたから、このドイツ人の感想が残念ながら素直に理解できた。

 ドイツ人が慨嘆するのも無理はない。
 ドイツの都市はどこも緑豊かで、樹木の間に赤い瓦の家々が並ぶ。家の壁や屋根の色は町ごとに条例で統一されているので、これが木々の緑に映えてまことに美しい。「開発」も限度を超えてはやらない。自然と人間が調和した生活がそこにはある。
 ベルリンのような大都会でも、集合住宅のビルには多少の不揃いや灰色が見られるものの、戸建の家々の屋根はやはり赤に統一されているし、市街は圧倒的に緑が多い。市の中心ブランデンブルク門の西に広がる広大なTiergarten(かつての王候の狩猟場)はベルリンのセントラルパークだが、代々木公園の約4倍の広さで、ベルリン子は、「あんなのはただの庭さ」とイキがって見せるけれども、われわれの感覚からすると、やはり公園・庭園というより、ほとんど森である。
 道の両側から街路樹が枝を広げてアーケードを作っている様はいたるところに見られるし、都心のZoo駅からS-Bahnに乗って5分もしないうちに、窓の両側が緑一色に染まり、やがて幾つもの湖が見え隠れし始める。
 Ring(環状線)でベルリンを巡ると、いたるところにHeide(野・荒れ野= Heidenröslein「野薔薇」のHeide)があり、実際にJungfrauheide, Hasenheideといった地名があって、Grunewald, Friedrichshainなど、Wald, Hainのついた森や森に近い公園がいたるところに点在する。Wannsee, SchlachtenseeなどSee(湖)も多い。
 ドイツの首都ベルリンは〈森と湖の都〉なのだ。
 ましてや地方都市の自然の豊かさ、景観の美しさについては、わざわざここに強調するまでもなく、ロマンティック街道ツアーなどでドイツを訪れる観光客の多い現代では、日本にも広く知られているはずである。

    ドイツ南西部の大都市シュトゥットガルト

 ドイツから日本に帰って来て最初に愕然とするのは、町や街並みの無秩序と汚さである。まさしく„Schweinerei, Wohnungswüste“なのだ。
 それなのに、日本の自然の美しさを褒め称える日本人は多くても、都市や家並みの猥雑さを慨嘆する人は何故かひどく少ない。

 ドイツの都市の景観が見事なのは、豊かな自然の中で建造物の様式が統一されているためばかりではない。
 電柱・電線がなく、ケバケバシイ看板を見かけないせいでもある。
 日本の都市の景観は、たとえ観光地やリゾート地であっても、電柱・電線によってズタズタに切り裂かれていることのなんと多いことか。
 しかもこれを嘆き、クレームをつける人は至って少ない。
 美しい景観は贅沢などではなく、人間らしい生活を送るための当然の権利なのだが、日本人にはその意識が実に希薄なのだ。それは都市計画条例にも現れている。
 電柱・電線だけではない。景観ぶち壊しの看板も目につくし、宣伝販売のための街宣車や、選挙になると候補者の名前を連呼するスピーカーによって住宅街の静寂は無残に破られる。静かに暮らす権利も日本では保障されていない。政治家が率先してそれを踏み躙って平気なのだ。

 最もヤバンなのは都市の踏切りであろう。これで年間平均350人もの人が命を落とすと言う。中には開かずの踏切などというのもある。危険なだけではない。遮断機の下りる時にはカンカンガンガンすさまじい警報音が鳴り響く。近所に住んでいる人は堪ったものではない。
 またベルリンの話になるが、線路はすべて立体交差で、踏切は一つもない。西欧の大都会はどこでもこれが常識なのだ。市民の安全快適に生きる権利がドイツでは当然のこととして認められているのに、日本は違うのだ。
 食の安全とかにはあれほど神経質になる日本人が、なぜこんなに危険で不便でウルサイ踏切には寛容なのか、理解できない。アメリカ産牛肉が危険で厳しい輸入制限が実施されているが、アメリカ人やアメリカに住む日本人はこれを食べていて、日本大使館から在留邦人に対してアメリカ産牛肉は危険だから、摂取を控えるようにといった通達が出されているという話は聞いたことがない。
 オスプレイが危険だ危険だと騒ぎ立てる日本人が、なぜ同じように声を大にして踏切りや通学路にある電柱の危険性を訴えないのか理解できない。

 日本人に人権意識が希薄なのは、建物のすぐ近く(5mも離れていないところ)を新幹線や高速道路が通っていることだ。
新幹線脇間近の建物。
 世界最高の技術水準と、世界最低レベルの人権意識。この取り合わせを象徴する国辱的な光景である。
 電柱・電線に切り裂かれた景観も同じだ。

 文明の進歩が自然を破壊し、人間の生活を脅かす事実は、水俣病をはじめとする「公害」という名の環境汚染・自然破壊によって日本人も身に沁みて知っているはずだが、文明は依然として人間生活を便利にし、豊かにするので、多少の弊害は我慢すべきであるといった、企業や政治家など権力側の横着な論理がまかり通っていて、民衆も無批判にこれに従っている、いまだにこれが日本の現実、というのは何と悲しいことだろう。

 東京スカイツリー(634m)でマスコミが浮かれ騒ぎ、日本中が舞い上がっている感じだが、はたしてそこからの眺めとはいかなるものだろうか。世界一高いというドバイのブルジュ・ハリーファ(828m)が砂漠に取り囲まれているように、ビルや家々が砂礫のごとく延々と広がる茫漠たる眺めがスカイツリーの周りを取り囲んでいるだけなのではあるまいか。

     スカイツリーからの眺望---まるで砂漠?

 「砂漠」の民はやたらと高い塔をたてたがる、と陰口をたたかれかねない。


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