文学の中の女中(乳母)たち ---日本とドイツ---
ドイツ編2
ロスヴィータ(フォンターネ『エフィ・ブリースト』1895年)

  「旦那さま! わたしのような者から便りが届いてきっとみょうに思われるでしょうけれど、それと申しますのもロロ(犬)のことでございます。アニーお嬢ちゃまは去年お目にかかりました時わたしどもに、ロロがすっかり怠けものになった、とおっしゃっておいででした。でもここでならかまわないです。好きなだけ怠けていいです。のらくらしてくれればくれるほどいいです。奥様にはその方がお気に召します。奥様は沼地や野原へ散歩なさる時いつもおっしゃいます。「怖いのよ、ロスヴィータ、独りぼっちだものね。でも誰かにお伴を頼むと言っても。ロロ、そうよ、ロロならいいわ。あれなら私のような者の相手でもしてくれるでしょう。有難いことに動物はああいうことなど気に掛けないからね。」そう奥様はおっしゃったのでございます。これ以上は何も申しません。どうかアニーお嬢ちゃまによろしくお伝えくださいませ。それにヨハンナにも。旦那様の忠実なしもべ、ロスヴィータ・ゲレンハーゲン。」

 エフィの数年前の不倫が発覚し、夫ゲールト・インシュテッテンと愛人の間で決闘が行われ、情人クランパス少佐が死に、エフィは離縁となった。それ以来傷心のエフィ奥様に付き添ってきたロスヴィータが、奥様の孤独を慰めるための伴として愛犬ロロを譲ってもらえないかと、かつての主人インシュテッテン男爵に宛てて書いた依頼の手紙である。
 エフィは体調がすぐれず、故郷ホーエン‐クレメンの両親の許への帰還が許され、養生を兼ねた散歩を日課としていた。この手紙は誰にも相談せず、ロスヴィータ一人の考えで書いたもの、小説のほとんど終わり近くに出て来る。

 ロスヴィータの手紙が着いたちょうど同じ日に、大臣からインシュテッテンの局長昇進を伝える書面も一緒に届いたのだった。
 しかし、たどたどしい筆跡で「フォン・インシュテッテン男爵閣下様」と、慣れないせいで可笑しな具合に宛名書きされたこの手紙の、素朴で心のこもった中身にインシュテッテン男爵はすっかり打ちのめされてしまう。
 折りから昇進の祝いに駆けつけてくれた親友のヴュラースドルフ枢密顧問官に、「ぼくは喜びなんて忘れてしまったよ。(中略) 見回してみたまえ、すべてどんなに虚ろで味気ないか」とインシュテッテンは言い、「いやはや、そんな気分で局長に就任しようというのかね」と呆れ顔のヴュラースドルフに、今受け取ったばかりのロスヴィータからの手紙を見せる。手紙を読み終えた顧問官の感想は「なるほど、かなわないね、われわれより上だよ。(中略) 昇進だの何だのがすべて空しく思えるのは、これのせいもあるんだね」
 「図星さ。ずっと前から感じていたことではあるんだが、この飾り気のない言葉からは、意図的であるかないかはともかく、非難の響きが聞き取れて、あらためてすっかり打ちひしがれてしまったってわけだ。数年来ぼくは苦しんできた。あの事件に関わる一切がっさいから抜け出したいのさ。何があっても気が滅入るばかり。顕彰されればされるほど、ますますそれらすべてを空しいと感ずるだけだよ。」

 鉄血宰相ビスマルク主導の下、破竹の勢いで国際社会に勢力を伸ばしつつあった新興国ドイツ第二帝政を支える有能な政府高官二人をして、人間として「われわれよりも上」と言わしめ、インシュテッテンに、その素朴な人間性の前には局長への昇進も空しいと感じさせるロスヴィータとは、いったい何者だろうか?

 彼女はインシュテッテン夫妻の初子・一人娘(アニーお嬢ちゃま)の乳母だった。
 身重のエフィが愛犬ロロと散歩している時に出逢い、話しているうちに、生れてくる子の乳母はこの人、と決めたのである。バルト海沿岸の町ケッシン(Kessinは架空の地名でSwinemündeのことらしいが、今はドイツと国境を接するポーランド領で、呼び方も違っている)にインシュテッテンが郡長として赴任していた頃のこと。海辺の墓地でのことだった。
 ロスヴィータはそれまで仕えていた老婦人を亡くし、埋葬が終わったばかりの墓地に一人ぽつねんと座っていた。女主人の死を悲しんでではない。主人はケチで気位が高く冷たい女だったし、葬儀にやってきた上層社会の親族たちも同じく彼女には冷淡だった。彼女は「自分たちみたいな第四階級」という言い方をしている。それほど見下した態度を見せつけられた。彼女は生きて行く気力を失くし、ここでこのまま死を待つのだと言う。
 その間じっと前に座っていたロロは、彼女が話し終わるとすっと立ちあがって彼女に近づき、その膝に頭をのせた。恨みがましいわけではない、ただ率直で飾らないロスヴィータの人柄と、その孤独と悲しみが伝わったのかもしれない。彼女の顔が一変する。「あれまあ、なんて嬉しいことだ。私のような者でもいいと思ってくれて、優しい目で見てくれて、顔を膝にすり寄せてくれるものがいるんだよ。何年ぶりのことだかなぁ。ねえ、お前さん、何て名前だえ。立派な犬だねぇ。」

 エフィは相手が子供好きかどうか尋ね、乳母としての経験が豊富で、芯から赤ん坊の世話をするのが好きと知って、「真心のある人柄」に魅かれ、「まるで神様が遣わして下さったよう」だと思う。夫はすぐ賛成してくれた。
 いわばロロが仲を取り持った形の出逢いだった。


Werner Fassbinder 監督の映画„Effi Briest“の中のRoswitha

 この度はロスヴィータが、孤独なエフィと、女主人の不在で所在なく怠けぐせのついしまったロロを再び結び合わせる役を買って出たというしだいである。

 彼女はテューリンゲン地方(エアフルト、ヴァイマルなどのあるドイツ中部)の出で、村の鍛冶屋の娘だった。未婚のまま身ごもってしまい、父親から真っ赤に焼けた金棒を持って追い回された。ちなみに19世紀初めまでならグレートヘン(『ファウスト』)みたいに死刑にされるところだが、さすがに19世紀後半ともなると、父親から追いかけられて必死で逃げまどい、妹から嫌味を言われるくらいですんだのである。それでも家で子供を産むことはならず、一人で納屋に行って死ぬ思いで産み落とした。虫の息でいるところを近所の人に見つけられ、助かった。赤ん坊は三日後に、子供が欲しいという人が来て、引き取られていった。それきり会っていない。一度安否を訪ねたことがあったが、大事に育てられているとのことだった。彼女自身は数日後、村長の紹介で乳母として雇われることになり、村を離れた。それ以後、主人はつぎつぎ変わったが、ずっと乳母や女中として奉公を続けている。

 この身の上話をした際、彼女はエフィに「ああ、奥様、どうか私のような不幸に遭われませぬよう、マリア様が奥様をお守りくださいますように(ちなみにロスヴィータはカトリック)」と言って、エフィをギクッとさせる。ロスヴィータはその時既にエフィの身に何か容易ならざること(不倫)が起こりつつあることを感じ取っていたのだ。余計な教養や思弁に邪魔されない分、物事を直感的に見抜く力が強く働くのであろう。

 ロスヴィータは生れて来た子供を訳もなく「リュット・アニー(Lütt-Annie)[かわいいアニーちゃん。Lüttは小さいの意味]」と呼んであやし、これがエフィにもインシュテッテンにも気に入って、赤ん坊の名前は自然とアニーに決まった。眠らせる時テューリンゲン地方の子守唄を歌ったが、歌詞は誰にも意味が分からず、おそらくロスヴィータにも分かっていない様子だった。

 インシュテッテンが本省勤務となり、北の町ケッシンを去って、ベルリンでの平穏な日々が続いたが、ひょんな出来事がきっかけで昔の恋文の束が見つかり、決闘が行われ、情人クランパス少佐が死に、エフィが離縁された時、ロスヴィータは、恋文といっても、既に黄色く変色して無造作に束ねられていた、もう6年以上も昔の話なのにとか、奥様がおいたわしいとか、クランパス少佐様が死んだのはお気の毒だとか口にするもので、同僚の女中ヨハンナから咎め立てされる。
 ロスヴィータにはどこか世俗の掟を超越したところがある。

 その時エフィは温泉地エムス(Ems)へ湯治に来ていたが、インシュテッテンからではなく故郷ホーエン-クレメンの母親からの手紙ですべてを知る。手紙には、実家からの経済的援助は約束されていたが、彼女の置かれた厳しい現実が記されていた。慣れ親しんだ上流社会は今後、彼女に対して閉ざされ、もう出入りは許されないこと。実家も同様であること。自分たち両親も旗幟を鮮明にしなければならないのだ、つまり、エフィのやったことは間違いであると、世の人たちすべてに対して明確に告げねばならない。そのためには一人娘であるエフィの実家への帰還を許さない、という態度を見せねばならないのだ。エフィのような境涯の者にとって、住むにはベルリンのような大都会がよかろう。

  小説„Effi Briest“の作者Theodor Fontane

 「名誉(社会的信用=上流社会のパスポート)」と道徳秩序を重んじる当時の社会をよく映し出した箇所である。
 忠告通り彼女はベルリンに住み、初めは賄い付きの下宿だった。だが必ずしも住み心地のいい場所ではなかった
 離縁されたエフィに初めからロスヴィータが付き添ったというわけではない。

 インシュテッテンは法律上禁止されている決闘で人を殺めたので要塞禁固となる。しかし普通の犯罪とは違って、決闘は貴紳としての「名誉」を守る行為だから、むしろ命を危険にさらしてまで「名誉」を守ったことで評価は高まる。こういうケースは6週間で十分という皇帝の口利きで、インシュテッテンは釈放されてベルリンの家に戻り、ロスヴィータがこれ以上アニーの面倒をみる心配がなくなったので、許しを得てエフィの許に駆けつけたというしだいであった。

 文学の中の女中は、家の中の除け者、持て余されっ子に惹かれるのが常であるから、ロスヴィータが父親の庇護を受けることのできるアニーお嬢ちゃまではなく、天涯孤独となったエフィの許にやって来たのは当然と言えるかもしれないが、もう一つには、彼女自身が娘時代に未婚のまま子を産むという、当時の社会秩序に違反したカドで自分の家からも、また結婚して家庭を持つと言った普通の市民生活からもやんわりとだが締め出された存在であることも、気持ちをエフィに向かわせる原因となったであろう。

 孤独になったエフィにとって、ロスヴィータとの再会はein großer Tag für beideと表現されている。二人にとっての大いなる喜びの日。
 ロスヴィータが訪ねて来たと聞いて下宿の廊下に飛び出したエフィは、「ロスヴィータ、あなたなのね。嬉しいわ。何を持って来てくれたの。もちろん良いものに決まっているわ。こんなに優しい懐かしい顔は良いものしか運んでこないもの。ああ、何て幸せなんでしょう。キスしたいぐらいよ、まだこんな喜びを味わえるなんて思ってもみなかったのですもの。…」
 この時もロロは道路の向こう側の歩道に座ってじっとエフィの窓の方を見ていたのだったが、許しもないまま呼び入れるわけにもゆかなかった。

 ロスヴィータが来てくれたことで慰められ、賄い付きの下宿を出て、アパートに独立した住まいを構え、いわば凪の状態に入ったエフィだったが、その彼女を決定的な危機が襲ったのは娘アニーとの再会がきっかけだった。エフィのたっての希望で、然るべき筋を介して実現した再会だったが、そこでアニーは何を聞かれても無表情に、言い含められた通りの台詞を「オームのように」繰り返すばかりだった。エフィはすっかり打ちのめされる。
 そうするよう言い聞かせたのが父親だったのか女中頭のヨハンナだったのか分からない。だが、現代人の常識を基準にしてこれを一方的に断罪するわけには行かない。
 道を踏み外した女は社会の、特に上流社会の枠組みから脱落してしまった存在で、たとえ母子であっても見えない壁によって分け隔てられた別世界の住人なのだ。いわば穢れたものとの接触は禁じられている。エフィの両親が、娘のしたことをはっきり間違いだと思っていることを世間(Gesellschaft)に知らしめ、上流社交会の一員であり続けるために、あえて娘の帰郷を許さない態度を取るのと同じで、これは当時の社会規範にはかなっていたのである。
 エフィは冒頭「風の娘(Tochter der Luft)」と呼ばれているように、風の精である。社会(Gesellschaft)の掟よりも、ひそやかな自然の囁き掛けを耳聡く聞き取り、無意識のうちにそれに従って生きているところがある。無視された社会はそういう人間に必ず復讐する。時代が移り社会規範が変われば、エフィのような人は無垢の犠牲者とも見えるが、その時代と社会の枠組みの中では無垢ではなく、罪人と見なされるし、人間は一人で生きるわけではなく、社会的存在だから、やはり罪人にはちがいないのだ。


風の娘(Tochter der Luft): 映画では名花Hanna SchygulaがEffiを演じた

 しかし社会の掟に従った方(インシュテッテンは決闘を決断した時、「われわれを暴君的に支配する社会的な何か(---uns tyrannisierende Gesellschafts-Etwas)」と言ってる。決闘するということは、エフィの過去を赦さないということである。)もやはり、彼が蔑ろにした自然から復讐を受けねばならない。
 初めに引いたインシュテッテンの「ぼくは喜びなんて忘れてしまったよ。(中略) 見回してみたまえ、すべてどんなに虚ろで味気ないか」「数年来ぼくは苦しんできた。あの事件に関わる一切がっさいから抜け出したいのさ。何があっても気が滅入るばかり。顕彰されればされるほど、ますますそれらすべてを空しいと感ずるだけだよ。」という呪詛に近い嘆きの言葉には、それがよく表れている。
 ちなみにエフィがさかんに「さわやかな空気[風](frische Luft)」を口にするのに対して、インシュテッテンは「空気(Luft)の中には細菌がうじゃうじゃ飛び回っている(Daß in der Luft Bazillen herumfliegen)」と言っている。これが二人の違いだが、エフィだけが正しいわけではなく、インシュテッテンの言っていることも間違っているわけではない。確かに言えることは、このような二人の組み合わせが不幸だということである。
 ビスマルクお気に入りの有能な高級官僚インシュテッテンとブランデンブルク地方の田舎に生れ育った風の精エフィの結婚の破綻は、その軍事力・経済力・政治力によって国際社会に目覚ましい発展を遂げつつあったビスマルクの第二帝政ドイツの内側で、社会と自然の乖離背反がもはや和解しえない域にまで達しつつあったことを告げ知らせていると言える。
 それこそが小説『エフィ・ブリースト』のメッセージではないだろうか。

 ロスヴィータは下層庶民の出だから、もともと上流社会の人間よりも自然に近い場所にいたし、そのうえちょっとヌケタところがある分、これまた自然に近いと言える。彼女にとっての社会の掟は、未婚のまま身ごもった彼女(自然の声に従った娘)を追い回す父親の振りかざす「真っ赤に焼けた鉄の棒」であるが、村人や村長の鷹揚な計らいによって、市民社会の枠組みから完全にこぼれ堕ちることからは免れた。資産家の冷たい仕打ちに傷つくことはあったが、そういう彼女を救ってくれたのがロロとエフィである。この三者を結びつけるのは自然、陽の光、風の囁き、ということになるだろうか。

 親子の情に駆られて我が娘に会いたい一心で、出来うれば時おり定期的にお茶でも一緒にと願ったエフィの夢は、当時の社会の秩序と掟によって打ち砕かれてしまい、彼女は心身に変調をきたす。身を案じたかかりつけの老医師のとりなしで、ホーエン-クレメンの両親はようやく社会・社交を断念して、罪ある一人娘の方を選び取る決心をし、エフィに電報を打つ。„Effi, komm!“(エフィ、おいで)。
 „Effi, komm!“というのは、最初インシュテッテンがホーエン-クレメンを訪ねて来て、いわばお見合いの席に行こうとするエフィに、ご近所の遊び仲間の双子の姉妹がエフィを呼びとめようとして発した言葉でもあった。エフィ、プロイセン高級官僚の世界に行ってはダメよ、そこはあなたにお似合いじゃないわ、ホーエン-クレメンの田園地帯こそあなたの世界なのよ、という意味を含ませてあるのだろう。
 決定的な破局の後ようやくエフィは爽やかな風と陽の光の世界に呼び戻されるが、既に手遅れであった。

 ロスヴィータの機転でホーエン-クレメンのエフィの許にやって来たロロは、つらかった昔の出来事を思い出して複雑な思いのエフィとは対照的に、至って落ち着いた様子だった。ロロにしてみれば、これまでが何かヘンだったので、これでようやく元通りの、あるべき境遇に戻ったと感じている様子なのである。それ以後はずっとエフィのそばを離れず、散歩の時はもとより、眠るのもエフィの寝室のドアの前のマットの上だった。

 それから半年後にエフィは息を引き取る。
 死の直前の母との対話で、神とも人間とも、そしてあの人とも和解して死ぬのだと言う。母親は、もしお前がこれまでインシュテッテンを恨んでいたとするなら、お前たち二人の不幸はお前が招いたものだったのだから、インシュテッテンを恨むのは筋違いだと言う。エフィは自分の罪を認め、決闘から、アニーを彼女に近づけさせまいとした措置に至るまで、インシュテッテンの取った行動のすべてを是認する。


       死の床のエフィと母親

 エフィはついに最後に、その時代に生きる社会的人間として、当時の社会の掟と、それに則って行動したインシュテッテンの正当性を認めた形だが、公平に見るなら、根っからの淫蕩な女などではないエフィが犯してしまった過ちに関して、その責任の一端はやはりインシュテッテンにもある。
 「あの人には生まれつき良いところがたくさんあって、とても高潔だったわ。本当に人を愛するっていうのがどういうことか知らなかった(ohne rechte Liebe)けれど。」というエフィの最後の言葉に、彼の「罪」のすべてが要約されるであろう。

 エフィの死後ロロは餌も食べず、エフィのお墓の前にじっと座り続ける。

 ロスヴィータのその後については書かれていない。たぶんその人柄を見込まれ、いわば娘の忘れ形見としても、娘に先立たれたブリースト夫妻の許に留まって、夫妻の身の回りの世話をするのではないだろうか。


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