文学の中の女中(乳母)たち ---日本とドイツ---
ドイツ編1
カタリーナ・ブルーム(ベル『カタリーナ・ブルームの失われた名誉(Ehre)』1974年)

 ドイツ文学にも、忘れ難い女中(乳母)たちが何人か登場する。
 マリー・フォン・エープナー‐エッシェンバッハ『ボジェナ』(1876)のボジェナ、フォンターネ『エフィ・ブリースト』(1895)のロスヴィータ、ヴェルフェル『バルバラ、あるいは敬虔』(1929)のバルバラ、それに、ブレヒト『コーカサスの白墨の輪』(1944)のグルーシェ。ボジェナとバルバラは名前がそのまま作品名になっているし、ボジェナとグルーシェは主人公である。
 だが、ここで忘れてならないのは戦後を代表する作家ベルの話題作『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』の主人公カタリーナもその一人だということだ。


    ハインリヒ・ベル(1917-1985)

 彼女は専門学校(Hauswirtschaftsschule)を出て国家試験にも合格しているから、かなり専門的な知識や能力を持っていて、家計、家政をも担当できるハウスキーパーであるが、昔もそういう役割をこなせる有能で信頼のおける女中がいた。たとえばボジェナがそうである。それに作中、彼女はHausgehilfin, Wirtschafterin, Hausangestellte, Dienstmädchen, Wirtschafterinなどと呼ばれている。やはりお手伝いさんである。
 これまでカタリーナをドイツ文学に登場する女中たちの系譜に加えて、その視点からこの作品を論じた人がいたかどうかは知らない。

 日本でも文学の中の女中たちは、経済的に恵まれ、高等教育を受け、高い地位についている中上流社会の教養人士たちが見失ってしまった堅実な道徳や人生知を体現した者として描かれることが多かった。ドイツ文学も同じで、上に挙げたボジェナ、ロスヴィータ、バルバラ、グルーシェはいずれもそういう人物たちである。
 カタリーナもそんな一人で、生半可に大学なんか出て、もの知りで、経済力があって、社会的ステータスも高い権力者たちによって維持管理されている現代の支配的な社会の仕組みや実態が、いかに歪んでいて、卑劣で堕落しきったものであるかが、無学だがまっとうに生きる素朴な庶民の視点から批判的に見つめられるというところも、この小説の見どころの一つである。

 カタリーナ・ブルームは、極左テロの容疑者ルートヴィヒをそれと知らずに愛してしまい、彼女の住むアパートが武装警官隊によって包囲されていたとも知らないまま、彼が国防軍を脱走して、今から外国に逃れるところと聞いて、秘密の抜け道を教えて逃がしてやる。彼女は警察に連行され、事情聴取される。
 大部の売り上げを誇る大衆紙「シンブン(これはドイツの大衆紙Bild紙がモデル)」は、購読者の好奇心に訴える絶好の事件とばかりに、翌朝から連日トップで「強盗犯の情婦」「人殺しの花嫁」といった大見出しと大判の写真入りでカタリーナ・ブルームについての煽情的な報道を繰り広げる。彼女はルーズな娼婦的女性であり、極左テログループの一味だとされ、彼女の育った家庭環境が暴かれ、両親や兄までも曝しものにされる。大方が歪曲と捏造による中傷記事だが、警察による取り調べの詳細が、シンブンに筒抜けになっているのも問題である。彼女の家には連日連夜匿名の電話や郵便物による嫌がらせが続き、生活は破壊される。シンブンの記者は、手術直後で絶対安静を要する彼女の母親に、医師から固く禁じられていたインタビューを卑劣な手段を使って強行して、母の死を早めたうえに、娘カタリーナの犯罪を知った故のショックから母親の死が早められたのだと報じる。カタリーナは約束していた個人的インタビューに現れたシンブン記者がなれなれしく近づこうとするところを、用意していたピストルで撃ち殺す。

 カタリーナは、シンブン記者の強引なインタビューによって母がいわば殺された後、憤慨する担当医に向かって、「あの連中はMörder(人殺し)であり、Rufmörder(評判殺し)です。軽蔑すべきなのは勿論ですが、きっと罪のない人間から名誉と評判と健康(Ehre, Ruf und Gesundheit)を奪い去るのがこの手のブンヤ連中のシゴトなのでしょう」と言っている。
 Rufmordとは、誹謗中傷で人の良い評判を台無しにすることである。
 ここでカタリーナが、自分からEhre(名誉)を奪ったシンブン記者をRufmörderと呼び、Ehre(名誉)と並べてRuf(評判)を使っているのは注目に値する。ショーペンハウアーは、Ehreに関する有名な定義で、「Ehreとは、客観的には、われわれの価値についての他人の判断であり、主観的には、その判断に対する怖れである」と言っている。
 カタリーナの言うRuf(評判)とは「われわれについての他人の評価」にほかならない。
 カタリーナが評判をこれほど重視する背景には、逆境を乗り越えてまっとうに生きて来たこれまでの人生に対する誇りがある。彼女は考えうる最悪の家庭環境と、そこから逃れるために早まってしてしまった結婚の失敗とから、一途な向上心と努力とによって、夜学にまで通って、上級ハウスキーパーの国家資格を取り、雇い主たちの信頼と尊敬を得るまでになった。社会的信用は彼女の宝なのだ。
 彼女の能力と人柄についての雇い主たちの感謝と称賛の言葉はテクストの中に数多く見出すことが出来る。

 雇い主の一人、かつてのギムナージウム教頭で年金生活者のヒーペルツ博士夫妻はカーニヴァル休暇を娘のところで過ごすべく旅行に出るが、カタリーナは自分の車で彼らを駅まで送り届け、混雑する駅の駐車場にようやく車をとめると、老夫婦の重い荷物をプラットホームまで運ぶ。こういうカタリーナの好意についてヒーペルツ夫人は次のようにコメントしている。「お金のためじゃありません、違います、そういう親切に対して彼女は私たちからびた一文受け取ろうとしないのです。チップを渡すなどしたら彼女の気持ちを傷つけることになるでしょう。」
 シンブンは、ヒーペルツ博士がカタリーナのことを「どの点から見てもラディカルな人物で、私たちを巧みに欺いていたのです」と言ったと報じるが、記事を読んで動転した博士は、実際に自分が言ったのは「もしカタリーナがラディカルだとしたら、親切さと用意周到さと頭の回転の速さの点で徹底している(ラディカル)ということです。私の目に狂いはありません。私は教育者として40年間経験を積んできた、欺かれるなどということはまずありえません。」だったと、カタリーナのもう一人の雇い主であるブロルナ博士に電話で伝える。
 その企業弁護士ブロルナも、休暇先で突然シンブンの記者からカタリーナの事件について知らされ、意見を求められて、腹立ち紛れに「彼女は非常に賢明で冷静な人物なんだ」と言ったのを「氷のように冷たく、計算高い」と歪めて報道されてしまう。
 しかし彼の本音は、「われわれはどれほどカタリーナに感謝しなくてはならないことか。彼女が冷静に親切に、段取りよく我が家の家政を取り仕切るようになってから、無駄な出費が大幅に削られただけではない。おかげで私たち夫婦は心おきなく職業活動に専念できるようになった。これは金銭には替え難い徳である。それまで5年間は収拾のつかない状況で、私たちの生活と職務の足枷になっていた。そこから解放されたのは彼女のおかげだ。」これはほとんど最上級の謝辞であり、讃辞である。
 しかし、カタリーナの人となりと能力についての最もニュートラルな証言は警察関係者からのものであろう。


 『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』のカバー

 彼女がテロリストの一員、少なくとも支援者ではないかという疑いを前提に、警察が彼女のノートやメモ帳から貯金通帳、出納簿に至るまですべて押収して、専門家に鑑定を依頼した結果、書類の記載はすべて几帳面で正確(korrekt)、疑わしい点など何一つない。明らかになったのは、彼女が母親に月々150マルクを送金していること、父親の墓の手入れを郷里の墓地管理会社に契約金を払って委託していること、窃盗犯で服役中の兄に時おり何がしかの小遣いを送金していたことなどである。点検に当たった簿記の専門家は刑事に書類を返す時、「いやはや驚いたね、もしこの娘が無罪放免になって、職探しでもするようなら、ぜひご一報願いたいものさ。こんなのはいつも探しているんだが、見つからなくってね。」と言った、という箇所である。これはいわばカタリーナの敵側陣営、警察からの証言なので、そのぶん証拠能力が高いと言える。
 何事にも手抜きをしない几帳面さ(Korrektheit)については、殺人事件の後収監された監獄でも話題になっており、彼女は模範囚で、初め調理部門で働いていたが、経理部門に移されるという噂がたつと、「几帳面との評判」のせいで、彼女は歓迎されるどころか、煙たがられ、「何事も段取り良くテキパキとこなす頭の良さと結びついた几帳面さというのはどこにおいても歓迎されないものだ」と語り手によってコメントされている。
 これらがカタリーナに対する公正な評価であり、彼女が得ていた社会的信用である。

 日本語に「名誉」と訳されるドイツ語のEhreは、少なくともカタリーナ・ブルームの場合は、社会的信用とそれに対する誇りのことで、カタリーナはそれをシンブンの中傷記事によってめちゃめちゃに壊されたのである。
 これが「失われた名誉」などという奇妙な日本語に訳されているものの正体である。

 日本で言う名誉は、別名「名教」と呼ばれる儒教の影響で、名声の意味がかなり強く混じり込んでいるので(「名」を重んじ、「名を千載に残す」ことを男子の本懐とし、「身を立て名を上げ」ることを尊っとしとし、「志を果たして、いつの日にか」「故郷に錦を飾る」ことを夢見る気風はその影響の一つである)、名もない女中ふぜいに名誉という言葉は必ずしも似つかわしくないかもしれない。
 一方ドイツでは、かつてEhreは市民を践民と区別する身分差別的な特権だったが、践民が消えて差別的な意味がなくなった後も、市民としての社会的人格、社会的信用を意味するものとしてEhreが残った。時代が変わっても、市民的Ehreは社会的信用、社会的人格の意味で残ったために、社会的ステータスの必ずしも高いとは言えないお手伝いさんにもEhreが認められておかしくないのである。女中さんの「名誉/Ehre」については、そういう日独の歴史的背景の違いを考える必要がある。

 さて、名誉/Ehreの日独比較論議はさておき、カタリーナが何も知らなかったとはいえ、テロ容疑者の逃亡を助けたのは事実で、これが犯罪に当たるのは確かだとしても、政治に無関心な彼女がなぜ警察にテロリストとの共謀を疑われ、異性関係に潔癖過ぎるくらいの彼女がなぜシンブンから身持ちの良くない娼婦的女性と書き立てられるに至ったのだろうか。

 これには先ず、シンブンの虚偽報道の発端となったテロ容疑者逃亡幇助のいきさつから見てゆかねばならない。

 問題は、あのダンスパーティーの晩のカタリーナの振舞いが皆のよく知る彼女からあまりにも懸け離れていたことである。普段の彼女は「尼さん(Nonne)」と渾名されるほど異性関係に潔癖で、ダンスは好きなのに、乱脈にすぎるという理由からディスコにも足を向けない。問題のダンスの晩も、パートナーを連れて来るよう言われた友人たちが、カフェで誰か適当な男の子を見つけて連れて行くと電話で伝えると、カタリーナは驚いて、貴方たちは軽率すぎると諌めたほどだ。こういう点に関して彼女は現代娘にしてはお堅い変わり者なのだが、友人がカフェで拾って来たルートヴィッヒと出会うやいなや、そのカタリーナがたちまちにして彼と打ち解け、一晩中二人でばかり踊っていたのにはびっくりした、と友人たちは口をそろえる。二人が初対面ではなく、昔からの仲間ではないかと、共謀関係を警察が疑う理由もここにある。その夜の彼女の行動は普段とあまりに違いすぎていて、辻褄が合わない、というのが警察の論拠である。
 実際はどうだったのか。
 「どうしようもなかったのよ、彼こそ私の待っていた人だったの。私はあの人と結婚して、あの人の子供を産んだでしょう、---たとえ何年でも、彼が刑務所から出て来るまで、待たなきゃならなかったとしても。」これがカタリーナの答えだ。
 これはもうロミオとジュリエット並みの運命的な恋で、卑俗な日常性の域を脱している。彼女はルートヴィヒ青年のゲッテンという苗字すら警察に事情聴取されるまで知らなかった。恋人どうしは常に名前で十分だからだ。キャピュレットだのモンタギューだのは煩わしい限りの障害でしかない。彼女の拘るzärtlichは相思相愛、共鳴しあう心を伴った愛で、zudringlichは押しつけがましい一方的欲情である。これを彼女は忌み嫌い、拒否するが、通い合う心があれば事態は一変する。それがカタリーナ流の操である。
 ゲッテンが西ドイツの政治や社会の体制と相容れず、兵役を拒否して脱走し、殺人や銀行強盗はしなかったものの、軍の金庫と武器庫を略奪し、国防軍内部の反体制勢力と結んで、何か決起のようなものを企んでいたことは確かのようだが、政治には無関心なカタリーナも、同時代の平均的道徳観や価値観からは妥協の余地がないほどかけ離れた生き方をしている。そういう二人が一目で自分たちの同質性を直感して、たちまちにして魅かれあうというのは不自然なことではない。


  映画のカタリーナとルートヴィヒ・ゲッテン

 だが、これは取り調べに当たる刑事やシンブンや大衆の卑俗な想像力をはるかに超えている。
 カタリーナ/ルートヴィッヒのそういう反時代的な異次元性を理解できない苛立ちは反転して当の異質な二人に向けられ、彼らをワルモノ、贖罪の黒ヤギに仕立てて、当時の西ドイツ社会に蟠っていたもやもやした負のエネルギーを、反社会主義、反テロ感情の波に乗せて、一気に排出することでカタルシスを導く、ここにはそういう演劇的仕掛けが認められる。
 この小説の出来事が、スケープゴートの創出と追放の祝祭であるカーニヴァル期間中に設定されているのは偶然ではない。カーニヴァルと言えばもう一つ仮装・変装・仮面があって、日常的アイデンティティーからのひと時の解放を楽しむわけだが、ゲッテンとカタリーナだけは変装しない。代わりにマスコミが極左テロ強盗殺人犯の仮面と娼婦の衣装を彼らにお仕着せ、いわば山車(だし)に乗せて町中練り歩いたあげく、門外に追放する。こういう古のカーニヴァルの俗習が無意識のうちに蘇らされているのである。しかもそういうからくりを巧妙に利用する品性下劣な権力者たちがいるのだ。
 それはカタリーナところに時々やってくる「紳士の客(Herrenbesuch)」と関係がある。
 「紳士の客」のことが話題になった時、雇い主の企業弁護士ブロルナ博士は、あの娘には魅力を感じるけれども、「紳士の客」として彼女を訪ねるなど、自分にはできない、彼女の無垢(Unschuld)に対する畏敬の念ゆえにできないのだ。そんなことをしたら(彼女は、自分をよく知るはずの者から、自分がその手の安っぽい女と見られたと感じ、いたく誇りを傷つけられ、絶望するだろう、)彼女とその人生を踏み躙ることになりかねない、彼女はとても傷つきやすいのだから、と言っている。何しろ彼女は、真心からの親切に対してチップを渡されても侮辱と感じるほどの、繊細で誇り高い娘なのだ。
 そういう機微を弁えない厚顔無恥なる「紳士の客」というのは、実はブロルナ弁護士の顧客で政財界の大立者アロイス・シュトロイプレーダーという中年シンシである。カタリーナにご執心の彼は、ブロルナ宅でのパーティーの後など彼女を無理やり車で自宅まで送り届けるが、カタリーナは、この映画俳優もどきのイケメン実力者にまったく興味を示さない。金持ちの大物実業家、権力を握る政治家で、そのうえ美男子とくれば、大抵の若い女ならコロリと参るはずなのに、彼女はこの中年男をバカにしきっている。カタリーナは高等教育も受けていない、教養もないが、平均的な女性とはまるで違う、というか、外見にとらわれずに人を見抜く眼力を具えているのだ。
 ソデにされ続ける年配紳士は高価なルビーの指輪を贈ったり、カーニヴァル休暇の直前には別荘の鍵まで無理やり押しつけるのだが、逃亡した政治犯ゲッテンの隠れ家にこれが利用されたことを察知するやパニックに陥る。泣きついた先の弁護士ブロルナからは散々コケにされるだけ。最後はシンブンや内務省にも顔の利く仲間の大物実業家に泣きついて、手を回してもらい、彼の名前は表ざたにならず、逆に鍵はカタリーナに盗まれたもので、彼女は彼の別荘をテロリストの隠れ家とすることで、保守政治家の威信失墜を謀り、家庭の平和をかき乱すことを企んだ淫婦であると報道される。カタリーナの後見人であるブロルナ夫妻も左翼だのアカだのと報じられ、ゲッテン逃亡に裏で一役買ったかのように書き立てられる。
 購読者大衆の反共アレルギーと卑猥な性的関心につけ込むことで発行部数を伸ばし、スケープゴートを作って群集心理を煽り、お祭り気分を盛り上げるシンブンの背後には、保守から右翼に至る検察や教会、更には政界・実業界の大立者が控えていて、彼らは立場や情勢を有利に導くためにシンブンと手を組み、情報操作を行っているのだ。

 ブロルナ博士はシンブンの捏造記事の中身を知ると怒り心頭に発して、発作的に新聞社に投げ込むための火炎瓶を作ろうとする。これは、国際的に活躍する有能な企業弁護士でさえ、悪辣無道なマスコミ報道と、それに踊らされる世論を前にしては、自らの言葉の力をもはや信じることが出来ない、ということと同時に、100年前であれば、ブロルナ博士が、自分たち夫婦とカタリーナの名誉のために、新聞社の社長やシュトロイプレーダーを相手に決闘を挑んだであろうことをも暗示している。ちなみに、マックス・ウェーバーだって妻の名誉のために決闘している。

 カタリーナについては他に二つ付け加えるべきことがある。
 言葉に敏感なこと。彼女は言葉を軽々しく扱わない。言葉に独自の拘りを持つ。彼女は自分の目で捉えた現実を適切に言い表す言葉を求め、執拗にそれに拘る。自分が現実と見るものに合わない不適切な言葉を断固拒否する。言葉と(自分が捉えた)現実の不一致に我慢できない。
 夫との離婚の原因や、かつての雇い主のもとを去った理由について、相手の男のzudringlich(しつこい、あつかましい)態度に我慢ならなかったから、と説明したのを、調書にzärtlich(甘くやさしい)態度を取ったから、と書き込まれようとして、この二つは全く違う、Zärtlichkeitは双方向的な愛・優しさであり、Zudringlichkeitは一方的な欲情だと主張し、時間をかけて説得して、ようやく表現をzudringlichに改めさせる。
 彼女に対するブロルナ夫妻の態度についても、調書にはnett(親切な)と書き込まれようとしたのを、gütig(慈しみ深い)という古めかしい表現を用いるよう主張して譲らない。nettなどという日常的に多用されるありきたりの言葉では、ブロルナ夫妻の彼女に対する慈愛に満ちた態度を言い表すにはあまりに不十分だと彼女は感じているのである。
 彼女の語感が言語学的に正しいかどうかは問題ではない。自分が捉える現実と言葉とが合致していること、それに彼女は拘るのだ。
 そのことと、彼女自身や信頼できる知人が彼女について持つ自己像(Selbstbild)と赤の他人が彼女に対して抱くイメージ、他人(シンブン)が彼女について行う言説・評価・評判(Fremdbild)との乖離に彼女が耐えがたい苦しみを覚えるのとは、底の部分で繋がっている。

 問題の朝、住まいに突入した警官隊の指揮を執る刑事バイツメネから「あいつはお前さんとヤッタのかね(Hat er dich denn gefickt)」と言われて、彼女が顔を赤らめると同時に誇りかな態度で「嫌ですね、私ならそんな言い方はしません」と言い返すのも、彼女の場合はカマトトではなく、性や異性関係についての彼女の真摯な姿勢の反映である。刑事バイツメネに対する彼女の不信感はこの時から一貫して変わらない。

 そういうカタリーナが最後、インタビューに現れたシンブンの記者が「どうかね、これから先ずイッパツやる(bumsen)ってのは」と言ったのに対して、「イッパツ(一発)、かまわないわよ」とピストルを一発ぶっ放す(bumsen)というのは理にかなっている。ここにあるのはよく言われる言葉遊び(Wortspiel)だけではない。カタリーナの辞書ではbumsenは原義どおり暴力行為であって、愛の行為ではないのだ。言葉を粗末に扱い続け、言葉による現実の歪曲を生業とし、表現と現実の乖離など気に掛けたこともなかったシンブン記者は最後に、自らが発した粗暴にして不正確な言語表現に対して罰を受けたのである。
 この場面は映画では、ベル自身も関係者たちの批判を聞き入れて、いくらか変更された。インタビューに現れたシンブン記者が、今回の事件をネタに追加の記事を雑誌に売り込んで、儲けようじゃないかと持ちかけたところで、ズドンと一発やられることになっている。問題のbumsenは最後にちょっと出ては来るが、重点は、どんな真剣な生き方でも、どんな苦しみでも、どんなスキャンダルでも、すべて金儲けのネタとしてしか扱わないやり方に懲罰が加えられるという方に移っている。これは少し理屈っぽすぎて、〈bumsenにはbumsenを〉に見られるかるみや遊びに欠けるきらいがある。それに〈bumsenにはbumsenを〉は、〈Rufmord(評判殺し)にはMord(殺し)を〉の結末とも平仄が合うのだ。
 Rufmordは言語による社会的人格殺人であって、これは殺人と同じくらい重いのである。これは言葉を重んじるカタリーナだからこそ言えることだ。

 カタリーナについてもう一つ重要なことはその家庭環境である。父親は鉱山労働者だったが、彼女が6歳の時に亡くなった。戦争で肺を負傷し、鉱道の粉塵のせいでそれが悪化したためてである。父の死後、年金はわずかしか降りず、母親は掃除婦として働いたが、不幸な人生と生活苦に打ちひしがれて、しまいにはアルコール中毒の兆候もあったり、男関係にも乱れがあった。そういう環境の中で兄は窃盗犯で逮捕収監される。しかし、カタリーナは少女時代から方々の家や店に働きに出、一家の家計を助けた。21歳の時、兄の友人で繊維関係の労働者だった男と結婚したが、zudringlich(しつこい、あつかましい)態度が目立つようになったので離婚した。
 これらのうち戦中戦後の父親の不幸やカタリーナのけなげな努力を除いてはすべてシンブンによって大げさに報道され、犯罪に対するカタリーナの近かしさが暗示され、兄の犯罪や母親の自堕落な行状は警察の心象にも影響を与えた。

 離婚後は名親のヴォルタースハイム叔母の援助で、家事手伝いやレストランでのバイトを続けながら、ハウスキーパー専門学校(Hauswirtschaftsschule)の夜間部に通って、国家試験も好成績で合格した。その間、母親や、亡くなった父親のお墓や、服役中の兄に対して彼女がしたことについては、既に記したとおりである。お手伝いさんとして年金生活者ヒーペルツ博士夫妻やブロルナ弁護士夫妻に対して彼女がいかによく尽くしたか、ハウスキーパーとしてどんなにすぐれた手腕を発揮して、彼らの信頼と尊敬を得るに至ったか、についても述べたとおりである。

 彼女の父は鉱山労働者で母親は掃除婦だったが、彼女も文字通り地を這うようにして生き、塵にまみれて努力してきたのである。彼女がダンスを愛したのは、足を地につけた地道な歩行からのひと時の解放も時として必要なことを感じていたからだろう。しかし地に足がついた生き方と素朴な道徳観こそが彼女の持ち味で、地に足が付かない言葉、実直な人生や大地から遊離した言葉使いほど彼女にとって我慢のならないものはなかった。〈正確な〉言葉に対するカタリーナのこだわりは、ごまかしのない彼女の地道で真摯な生き様の反映である。

 繰り返しになるが、もともとドイツ語のEhreには社会的信用、社会的人格の意味がある。社会人としての身分証明的な意味合いが昔からEhreにはある。Ehre喪失は社会的信用の喪失、社会的パスポートの喪失で、社会的な死を意味した

 民主的な個人主義の社会では、めいめいが自分の個性や理想に合わせて自己を形成するので、社会的人格として認知されるためには、他者の承認(Anerkennung)、つまり社会的信用を自力で獲得する必要がある。それだけにシンブンが行ったような中傷(Verleumdung)の破壊作用は致命的で、信用破壊Rufmordは、即、社会的人格殺しを意味するのである。
 逆境の中からひたむきな努力によって自らの社会的信用を勝ち取り、社会的人格を築いてきた誇り高いカタリーナだからこそ、人格殺人に現実の殺人を、RufmordにはMordをもって対抗することで、決闘が廃れた現代においてもやはり、社会的存在としての人間にとって、社会的生命Ehreが、その重さの点で、生物学的な意味での命に劣るものではないことを主張せずにはおれなかった、そういうことではないだろうか。

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