少年易老学難成     高瀬先生

 中学一年の時だったと思う、数学の試験で満点をとったので、先生が褒美にノートを一冊くださって、表紙の裏にこの詩が書かれてあった。

  少年易老学難成
  一寸光陰不可軽
  未覚池塘春草夢
  階前梧葉已秋声

 返り点なしの白文、立派な楷書体で書かれてあった。
むろん中学一年生に読めるわけがない。父が山寺の住職だったので、読んで解説してもらった。

  少年老い易く 学成り難し
  一寸の光陰 軽んずべからず
  いまだ覚めず 池塘の春草の夢
  階前の梧葉 すでに秋声

 この詩を表紙裏に書きつけたノートを贈ってくださったのが高瀬先生である。
 旧制姫路高校を出たばかりで職もなく、家でぶらぶらしているところを、戦後間もない頃で、教員不足だったから、菅野中学の臨時教員に雇われた。まだ二十歳そこそこだった。万能で、家庭科以外のすべての教科を担当した。今流に言えば、あらゆる点でカッコヨカッタ。
 ある時、数学の授業が終わりかけたころ、突然、黒板一杯にギッシリ数字を書き並べた。これは何か? 最初が3.14---だったから円周率と分かったが、何十桁あったうか。数がみな不規則に並んでいる。無理数という言葉は√2とか√3で既に知っていたが、無理数の簡単な定義を聞いたのはその時が初めてだった。円周率をどうしたらそんなにたくさん暗記できるのか。コツは、文章にしたのを覚えるということだったが、その文章を教えてもらったかどうか思い出せない。ただ、数の不思議を垣間見せられて、興奮したことは覚えている。
 スポーツ万能で、足が速く、高校時代にはラグビーをやっておられた。雪が積もった校庭で高瀬先生が上級生たちを相手に半ば雪合戦みたいなラグビーをされたことがある。その時、近くに攻めてきた敏捷な生徒の足に横っ跳びにタックルをかけて、その生徒がものの見事に横転させられた。むろん怪我などさせない。あまりの鮮やかさに皆が息をのみ、わーっと歓声が上がった。倒された生徒も悔しいどころか、むしろ誇らしげに見えた。

  当時、騎馬戦は男子生徒の特権で、運動会の華だった。ただ、皆だまってぞろぞろ運動場に出ていくのは芸がないというので、晩夏の木陰に生徒たちを集めて、行進するときに歌う歌を教わった。高瀬先生の指導である。
 『箱根八里』。歌詞を書いた紙などなく、すべて口うつしだ。「箱根の山は天下の剣、函谷關もものならず…」この辺は説明があったが、分からないのが「羊腸の小徑は苔滑らか」で、解説があったのかなかったのか、それさえ記憶にない。ともかく「ようちょう」が「よちょう」と聞こえて、てっきり四町の長さのことと思い、どれくらいの距離だろうかなどと、つまらぬ思案に暮れたのを思い出す。
 高瀬先生には一度叱られたことがある。バレー部に入っていて、自分の練習が終わったので、さっさと帰り支度をはじめたら、皆が練習を終わるまで待っていなさい。特別な事情もないのに自分だけ先に帰るというのは、身勝手というだけではない。皆が練習しているあいだは、他の人の練習ぶりや、先輩の指導の様子をじっとよく見ておく。他人の練習を見るのも練習の一部なのだと、きちんと理を立てて説明してくださった。その時の声や態度が実に爽やかで、注意された側も気持ちがよかった。その後、自分も教師になったが、学生を叱る時、なかなかあんな風には行かなかった。

 その後、先生は山崎高校に転勤された。私の母校だが、卒業した後である。高校在学中お世話になった数学の恩師から、新しく同僚となった高瀬先生の評判を聞いたことがある。あの先生は万能だ、あんなに出来る人に出会ったのは初めてだ、と心から感嘆したように話しておられたのが印象的だった。
 三十歳を過ぎてから、神戸大学理学部に入学されて、後に三菱重工か何か大企業に就職されたと聞いた。
 「先生と呼ばれるほどのバカでなし」を地で行く生き様である。
 私は一生を「センセイ」のまま過ごすしか能がなかったが、ごく少数の例外を除くと、残念ながら学校の先生がみな文字通りいかにいい気なバカか、身に沁みて感じる機会の何んと多かったことか。

 教員不足で免許状など必要なかった時代だったからこそ、あんなにキラキラする才能に恵まれた素敵な先生と巡り合えた。
ただ、せっかく書いて贈って下さった「一寸光陰不可軽」だが、その戒めの方はそれほど忠実に守ったとは言えない。

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