文学の中の女中(乳母)たち ---日本とドイツ---
日本編2
たけ(太宰治『想い出』、『津軽』)

 「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫《くら》の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺《むがしこ》語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛《め》ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。


 太宰治『津軽』(1944年)のクライマックスである。
 清と坊っちゃんの再会に劣らぬ名場面だが、実体験を踏まえているだけに具体的だ。
 この方がリアリティーが濃く感ぜられるのは方言の力津軽弁のせいもあるだろう。10年近く弘前に暮らした私には、たけが語る「一語、一語、」のイントネーションまで聞こえて来る気がする。

 
    若き日のたけ        たけの「修ちゃ」

 昭和19年 、35歳の太宰が「津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。」彼はその人を、「自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。」
 「たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられた。」
 「私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。」


   金木町の太宰の生家、今は太宰治記念館「斜陽館」

 太宰は先ず、自作「思ひ出」の中の文章を引用する。
 「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。」

 教育ママならぬ教育女中だが、違ったのは、たけが道徳を教えたことである。

 「たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。」

 この頃のたけは17、8歳のはずで、今なら高校生の2、3年生だが、当時は社会全体が貧しく、庶民には素朴な信仰心もあり、自然と子弟に対する家庭のしつけも出来ていたのであろう。たけの言葉がその人柄によって裏付けられていなければ、幼い子供の心に届かなかったはずである。

 だが、修治が小学校に通うようになると間もなく、たけは津島家を去った。
 「さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。それから、一年ほど経つて、ひよつくりたけと逢つたが、たけは、へんによそよそしくしてゐるので、私にはひどく怨めしかつた。それつきり、たけと逢つてゐない。」

 この時のことが『想い出』にはこう書かれている。

 
「たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。
 
 
「四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思ひ出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といへば、たけを思ひ出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかつたのであらう。何のたよりも無かつた。そのまま今日に到つてゐるのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。いいところは後廻しといふ、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。」

 
 「小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに」、太宰はたけを訪ねて行く。
 だが、ちょうど春の運動会で人出が多く、運動場はごったがえし、なかなか逢えない。ちぐはぐな行き違いにすっかり気分を腐らした太宰は半ばやけになって、「帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。」とまで思う。

 だが、次のバスにはまだ30分ほど間があった。
 「バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらゐ休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それぢやあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行つて、ひと知れず今生《こんじやう》のいとま乞ひでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはづれてゐる。さうして戸が二、三寸あいてゐる。天のたすけ!」
 腹痛のため運動会を抜け出して帰宅していた14、5歳の娘さんが、まだ少しお腹が痛むのをこらえて案内してくれた。
ようやく逢えた。

 「「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。

 太宰にとって「有難い母」とは、たけのことである。

 たけが家へ奉公に来た時は、十四歳で、それから六年間ばかり修治の養育係を務めたのだが、「けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。(中略) たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。(中略) 全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。」


       小泊のたけと太宰の像

 たけは餅を食うよう勧めたが、太宰が断ると、「「餅のはうでないんだものな。」と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、
 「たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。」と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。

 「竜神様《りゆうじんさま》の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
 「ああ、行かう。」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。」
 そうしてあふれ出るように語られたのが冒頭に引いた再会を喜ぶたけの言葉である。

 これは母恋の旅のようでもあり、放蕩息子の帰郷のようでもあり、自分の存在の基底をもう一度確かめる原点回帰の旅でもあったように思える。

 修治は11人兄弟の10番目で、「長男を「ごで」、二男以下を「おんず」「おずかぶ」、末っ子を「おずかす」と呼」(『メルマガあおもり』)びならわし、長男を偏重して次男以下を軽んじる風のあった津軽地方では、けっして家族の愛に包まれていたわけではなかった。そういうところに、優しく賢い女中たけを修治が慕い、たけの方でも修治に並々ならぬ愛情を注ぐ要因の一つがあったと思われる。

 文学の中の女中たちには、経済的に恵まれ、高等教育を受けた上流社会の者たちが見失ってしまった土臭い道徳、生き方、堅実素朴な人生知のようなものにを体現した人物が多い。『津軽』のたけも例外ではなかった。

 太宰だけでなく、高い知性と感性を具えた作家たちには、方向性の見えない近代社会の中で、そういう素朴で堅固なものに憧れ、そこに人生の指針を再発見しようとする傾向が往々にして認められる。

 デカダンスの無頼派作家と言われた太宰の根底には「たけ」がいて、彼をじっと見守っていたようだが、しかし、そのたけとても彼を引き止めることは出来なかった。

 津軽でのたけとの再会の4年後、昭和23年6月に太宰は愛人とともに玉川上水で入水自殺した。享年38歳。


     三鷹の禅林寺にある太宰の墓

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