時計と近代市民社会Ⅱ---目覚まし時計の殺人
グレーゴル・ザムザ(カフカ『変身』)(1912)とハンノオ・ブッデンブローク(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』 )(1900)

 18世紀にルソーが「何とか調和させよう」と努力した「自然的人間と市民的人間」両者の分裂が決定的になるのは、カフカの『変身』(1912)においてではなかろうか。



 主人公のセールスマン、グレーゴル・ザムザは、前夜眠る前に、5時発の始発列車に間に合うようにと4時に合わせておいた目覚ましのベルが「家具を共震させるほど」猛烈に鳴り響くのを聞き逃して寝過ごす。
 目覚まし時計を4時にセットした前夜のグレーゴル(市民的人間)と、家鳴り震動するベルの音を聞き逃して寝過ごすグレーゴル(自然的人間)と、二人のグレーゴル。
 目覚まし時計の猛烈なベルの音を聞き逃して寝過ごした「自然的人間」は、実はこの時もはや人間ではなく、文字どおりの「自然」、つまり虫、に変身してしまっているのだ。
 グレーゴルは今や巨大な虫の姿になってしまっているのに、ベッドの中から、時計の刻々の針の動きに戦々恐々の眼差しを送っているのである。

 「そこで彼はたんすの上でコチコチ動いている目覚まし時計の方に目をやった。 <大変だ!> と彼は思った。6時半だった。時計の針はゆうゆうと進んでいて、半どころか半を回って、既に45分に近付きつつあった。目覚まし時計は鳴らなかったのだろうか。4時きっかりに合わせてあるのがベッドから見えた。じゃあやっぱり鳴ったにちがいない。そうは言っても、あの家具を共震さすほどのベルの音を聞き逃してゆうゆうと寝過ごすなんてことがありうるだろうか。もっともゆうゆうと安眠したわけではなかったが、それだけ一層ぐっすりと眠っていたのだろう。だが、今からどうしたものか。次の汽車は7時発だ。それに間に合おうとすれば、めちゃくちゃ急がなくちゃならないだろう。ところが商品のサンプルはまだケースに詰めてなかったし、俺自身あまり爽やかでも軽快な気分でもない。それにたとえ俺が汽車に間に合ったとしても、社長のカミナリを避けるわけには行くまい。
(中略)
 ベッドを出る決心もつかないままに、こういったすべてのことを大急ぎで思案していた時、ベッドで彼が寝ている枕元のドアを用心深くノックする音が聞こえた。 <グレーゴル> と呼ぶ声がした、母親だった、 <6時45分だよ。出掛けないのかい?>」

 グレーゴル・ザムザの身体は虫に変身しているのに、意識だけは依然として「市民的人間」(セールスマン)のままで、「次の汽車は7時発だ。それに間に合おうとすれば、めちゃくちゃ急がなくちゃならないだろう」と、何とかしてセールスの旅に出かけようと焦っている。虫になった身体のまま、ベッドから起き出し、服を着替えようと涙ぐましい努力を重ねるのである。


     カフカはこのイラストを気に入っていた

 その支離滅裂ぶりは、間もなく様子を探りにやって来た会社の支配人に、クビにしないよう社長にとりなしてくれと懇願する場面で頂点に達する。

 「すぐ服を着て、商品の見本をケースに詰め、出掛けますよ。いいでしょう、行かせてくれますね。どうです、支配人さん、私は意地を張っているんじゃない、働きたいんです。どさ回りはつらい、でもそうしなきゃ生きてゆけないでしょう。どこへいらっしゃるんです、支配人さん。本店へですか。そうですね。何もかもありのままに報告してくださるでしょうね。私は当面働こうにも働けない、でもそういう時こそ以前の私の仕事ぶりを思い出して、また支障がなくなったら、きっとこの分を取り返すためにも一生懸命気を引き締めて精を出すと思って下さい。だって社長さんには一方ならぬ恩義を受けている、それはよくご存じの通りです。それに両親や妹のことも気掛かりだ。板挟みでどうにもならないのです、でもなんとかまた切りぬけて見せます。どうかこれ以上私の立場を難しくしないで下さい。本店に帰ったらお執り成しをお願いします。」

 この時グレーゴルは、虫に変身したことで、声を失っている。
 支配人は相手の意図を、身体とその身ぶりからしか察することができない。
 どでかい虫の化け物が部屋からはい出して来たと思ったら、口をパクパクやりながら近づいてくるのである。本人は懇願しているつもりでも、音声が伴わないから、虫の化け物が今にも食いつきそうな勢いで迫ってくるのだ。
 支配人ならずともほうほうの態で逃げだすしかない。
 「市民的人間」と「自然的人間」、意識と身体、の救い難い分裂ぶりを、これほど鮮やかに映し出す場面を想像することは難しい。
 『変身』冒頭の場面は「市民的人間」の大真面目な努力を虫に変わり果てた身体(「自然的人間」)が裏切り、挫折させ続けるというパターンに貫かれている。

 目覚まし時計を4時に合わせる律義さと同様、「市民的人間」の訴えの真剣さは疑う余地がない。他方、猛烈なベルの音を聞き逃して寝過ごす眠気と同様、声を奪い、訴えを発信できなくしてしまった虫への変身も動かし難い事実である。
 身体は意識よりも存在の奥深く(無意識)に根差していて、意思や言葉を裏切って、内なる真実を暴き出して見せる。
 真面目な青年グレーゴルの家族に対する義務感をも否定してしまうほどの「自然的人間」=身体の思いとは、いったいどのようなものだったのか。

 「やれやれ、何て骨のおれる商売を選んでしまったことか。来る日も来る日もどさまわり。商売上の気苦労は本店でやる仕事よりずっときつい、おまけに旅の煩わしさまでのしかかってくる。汽車の接続を気にしなくてはならぬは、食事は不規則でまずいは、人との付き合いだってしょっちゅうくるくる変わって長続きしないし、心のこもった関係にまではなりゃしない。こんな生活なんて悪魔にさらわれるがいい!」

 グレーゴルがベッドの中でこんなことを思っていた時、彼の身体は既に虫に変身しているのだから、その生活は願いどおり「悪魔にさらわれ」てしまっている。

 出社拒否に陥るのは責任感の強い人に限られるというから、5時発の始発列車に間に合うようにと目覚まし時計を4時にセットしておくほど生真面目一方のグレーゴルだからこそ、仕事への嫌悪感や徒労感がいっそう耐え難く感じられる、といった事情もあったろうと想像される。・・・

 だが、これは作品論や解釈ではないので、時計と近代市民社会のテーマに戻ることにするが、ここで問題になっているのは普通の時計ではなく、目覚まし時計なのだ。

 「自然的人間」と言えば、眠っている人間こそまさに「自然的人間」そのものである。
 
眠っている人間を眠りという広大な自然の原野から無理やり連れ戻し、市民社会に引き出すための装置、それが目覚まし時計だ。
労働者チャプリンを追い立て駆り立てた時計も人でなしだが、それよりはるかにタチが悪い。

 ヨーゼフ・ロート(JosephRoth)は、人間の眠りを聖なるものと見なしていて、けっして眠っている人を起こしたりはしなかった。
 ペーター・アルテンベルク(Peter Altenberg)は更に徹底していて、「人を眠りから起こすような者は、人殺しだってやりかねない」とまで言っていたそうだ。


  Peter Altenberg人形(Wien Café Centralの入り口付近)

 その論理で行くと、目覚まし時計は恐るべき殺人機械、ということになる。
 事実、乾ききった近代市民社会の尖兵としての目覚まし時計の残酷な起床ベルの呼びかけから逃れるためにグレーゴル・ザムザは人間稼業をやめて、虫に変身した。
 目覚まし時計は人ひとりを殺したと言える。

 ところがドイツ文学には、これより10年余り前に、もう一つ目覚まし時計による殺人の物語(『ブッデンブローク家の人々』1900年)が書かれていた。

 「目覚まし時計の仕掛けがカチッと動いて、忠実に、しかも残酷にジリジリ鳴りだした。それはしわがれた、割れた音で、リンリンというよりは、むしろガラガラというのに近かった。なにしろ長く使われて、おんぼろになっていたからである。しかしそれは長い間、絶望的なほど長い間、鳴り止まなかった。存分に巻いてあったのだ。
 ハンノオ・ブッデンブロークは身も凍る思いだった。毎朝のことだが、耳のすぐ脇のナイトテーブルの上で、この悪意に満ちていると同時に実直な音がけたたましく鳴り始めると、恨みと嘆きと絶望のあまり彼は身が縮むのだ。
(中略)
 七時になった時、彼はまたはっとして目を覚ました。さあまたこれだけの時間が経ってしまった。起きてこの朝を受け入れる---それを逃れる手だてはもはや何もないのだ。学校が始まるまでわずか一時間しかない。時間が迫っていた、予習どころのさわぎではなかった。それでもなお彼は横になったままだった、凍えるような寒気の中で、薄暗いうちから暖かいベッドを抜け出し、厳しい意地悪な人たちの中へ、困難と危険に遭うために出掛けて行かなくちゃならないなんて、なんと残酷な義務なんだろうかと訴えたいような、腹立ちと悲しみで一杯の気持ちだった」

 目覚まし時計の音や針の動きに絶望的な苦しみを味あわされているのは15歳の高校生ハンノオ・ブッデンブローク(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』)少年である。
 小学生以上なら誰しも身に覚えのあるところだが、この怯え方は尋常ではない。

 市民社会、といっても、彼の場合、学校(ギムナージウム)だが、「厳しい意地悪な人たち」と「困難と危険に」満ちた場所、と言われている。
いったいどういうことか。
 時は1876年。
 普仏戦争(1870年)の勝利によって、プロイセンを中心に念願のドイツ統一が実現した直後である。


  Die Hansestadt Lübeck Holstentor 19世紀末のイメージ

 ドイツ帝国が誕生し、後進国だったドイツもいよいよ世界の列強に伍して、弱肉強食の帝国主義的闘争に加わろうとしていた。
鉄血宰相ビスマルクの下、「国家」の繁栄と発展こそがすべてで、極端な富国強兵策がとられ、学校の使命は、国家に奉仕する有為の人材を育成することにある。
 プロイセン流の精励恪勤が尊ばれ、生徒たちは競って粗暴の気風を発揮し、勉強がよく出来るか、さもなくば酒、たばこ、腕力が強いことを誇りとしていた。
 ところがハンノオ少年の取り柄といえば、音楽の才能に恵まれ、ピアノが弾けることだけ、ひ弱で、勉強嫌い。こんな時代の学校のヒエラルキー秩序では、音楽少年などという軟弱の輩はゼロかセロ以下の価値しかない。
 当然イジメの対象である。イジメるのはクラスの腕白どもだけではない。生徒たちから笑い物にされる新米教師は、絶対に反撃される恐れのない出来の悪い生徒に狙いを定め、いたぶり、懲らしめることで溜飲を下げ、かろうじて自分の権威を保とうとする。ハンノオはその格好の標的だ。そういうやり方に陰でほくそ笑む者はいても、反逆する者は誰もいない。
 繊細なハンノオは15歳にして既に、醜い人間心理と、この世の仕組みのすべてを見抜いてしまっていて、吐き気を覚えながら学校に通っている。

 そういうハンノオが間もなくチフスに罹って、あっけなく世を去るのは不思議ではない。
 ハンノオの内なる市民的人間は目覚まし時計の命令に逆らう勇気も持てず、市民社会の「残酷な義務」をしぶしぶ受け容れた。それはこの日の朝だけのことではない。
 否定され続けたハンノオの内なる自然的人間は、チフス菌という自然界の仲間を体内に呼び入れ、その協力を得て市民的人間に復讐を遂げたのだ。
 あまりにも無理を強いられ、否定され続けたグレーゴル・ザムザの自然的人間(身体)が抑圧に耐え切れず、ついに虫に変身することによって、生真面目な市民的人間を市民社会から脱落させてしまうように。

 市民社会の手先としての目覚まし時計の「残酷な」命令に耐えられないのは、ハンノオの場合、「自然的人間」というより、音楽的(芸術的)人間である。
 芸術(Kunst)は自然(Natur)の対極にあるが、自然に深く根を降ろしてもいる。
 ハンノオの愛する芸術(音楽)は近代市民社会とは相容れない。

 実は、月曜日の朝の目覚ましのベルの響きにハンノオ少年が「身も凍る思い」を味わっていた場面は、その後に控える学校生活に対する吐き気と並んで、その前夜、日曜日の晩に、彼が市立劇場でヴァーグナーの『ローエングリン』を聴いたことと深く関連している。
 観劇の模様は次のように描かれている。

 〈数日間つづけさまに、やむを得ず、歯医者さんに痛め付けられた後で、ご褒美の意味で、彼は市立劇場へ《ローエングリーン》を聞きに、母のお伴をすることを許された。この夕べを待ち望む楽しみが、既に一週間も前から彼の生活のすべてであった。(中略)宿題は思い切って日曜の晩の彼方へと延ばしてしまった。月曜なんぞに何の意味があったろう。いつか月曜が来るなぞということが本当にあるのかしら。日曜日の晩《ローエングリン》を間くことになっている時に、月曜日のあることなぞ信じる者はいないのだ---。彼は月曜の朝早く起きて、この馬鹿らしい仕事を片付けようと思った---それでたくさんだ。そこで彼は気ままに歩き回って、心の喜びをいたわり育てて、ピアノに向かって夢想曲を奏で、いっさいの不愉快なことを忘れた。
 さてそれから幸福が現実になった。感激と恍惚、ひそかな震えとおののき、心の中の突然のすすりなき、法外な、貪婪な陶酔をともなって、幸福が彼に襲いか掛かって来たのである……勿論オーケストラの貧弱なバイオリンは、庁序曲で効果が出せなかったし、(中略)それに隣の仕切り席には後見人のキステンマーカー氏が座っていて、こんなものを聞かせたりするから、子供の頭が散漫になって、義務を忘れるようになるのだ、とぶつぶつ言っていた。しかしそんなことは彼の聞き惚れている、甘い清らかな妙音が、きれいに忘れさせてくれた……
 しかし、とうとうやっぱり終わりが来た。歌いつつほのかに光る幸福は鳴り止んでしまった。ふと我に返ると、彼はのぼせ切った頭で、再び家の自分の部屋に帰っていた。そしてこのベツドでほんの数時間眠っただけで、すぐ灰色の平凡な生活が始まるのだということに気が付いた。すると、はっきり覚えのある、あの完全な意気消沈の発作が彼を圧倒してしまった。美というものがどんなにつらく苦しい思いをさせるものか、美というものが人をどんなに深く羞恥の中へ、絶望的な程にせつない憧れの中へ突き落として、しかも卑俗な日常生活への気力や適応能力を蝕むものか、ということを彼はまたしても感じていた。その気持ちがひどく絶望的に山のような重みで彼にのしかかって来たので、彼は自分を圧えつけているものは、自分の個人的な悲哀を越えたものにちがいない、それはそもそもの始まりから自分の魂に重くのしかかっていて、いつの日かきっと自分の魂の息の根を止めてしまう重荷にちがいない、とまたしても自分に言い聞かせたのだった……
 その後、目覚ましをかけて眠ったのだ。二度と目を覚ましたくないと思って眠るときのように、ぐっすりと死んだように眠った。さていよいよ月曜目になった。そうして今6時だ。しかも彼はどの学科の下調べもしていないのだ〉

 You Tube『ローエングリン』第三幕への前奏曲

『ローエングリン』第三幕への前奏曲:指揮クラウディオ・アバード

 ヴァーグナーは『ベートーヴェン論』の中で、文明は音楽によって打ち消されてしまう、ちょうどランプの光が日光によってかき消されるように、と言っている。そこに言う文明とは、国家や社会に関わる法や義務や営み全般を指すが、むろん近代市民社会もである。
同じことをアウグスト・フォン・プラーテン(August von Platen)は、

  美しきもの見し人は
  はや死の手にぞ渡されつ
  世の勤しみに適わねば。(訳:生田春月)
  (Wer die Schönheit angeschaut mit Augen,
  Ist dem Tode schon anheim gegeben,
  Wird für keinen Dienst auf Erden taugen,)

 と詠った。

 前夜『ローエングリン』の音楽に酔い痴れた者の耳に、目覚まし時計のベルがどれほど耐え難く鳴り響くか、想像に難くない。
後見人のキステンマーカー氏ならずとも、謹厳実直な市民なら誰しも、「こんなものを聞かせたりするから、子供の頭が散漫になって、義務を忘れるようになるのだ」と思うに違いない。

 ここで、グレーゴル・ザムザと音楽の関わりについてもちょっと触れておきたい。
 物語の終わり近く、下宿人たちの前で妹がバイオリンを弾いて聞かせる場面がある。
 久しぶりにグレーテ(妹)がバイオリンを取り出して弾き始めた時、初めのうちは物珍しさも手伝って熱心に耳を傾けていた下宿人たちはやがて飽きて、早く終わらないかといらいらしながら葉巻の煙を天井に吹き付けている。

 それでも妹はみごとに演奏していた。(中略)音楽がこんなに彼を感動させるのに、彼は獣だろうか? 彼には憧れ求めていた未知の糧への道が指し示されているように思えた。

 彼は妹と違い、もともと非音楽的な人間だった。
 虫になって初めて音楽に魅せられるのである。
 つまり、市民的人間であることをやめ、近代市民社会から降りてしまって初めて音楽が彼の心を捉えるようになる。
 勤勉な近代市民社会の成員である下宿人たちはすぐに飽きて、早く終わらないかといらいらしながら「葉巻の煙を天井に吹き付け始める」のに、役立たずの居候、市民社会のお荷物である虫の化け物だけが音楽に心奪われる。

 「音楽がこんなに彼を感動させるのに、彼は獣だろうか(War er ein Tier, da ihn Musik so ergriff?)

という一文には、

 〈音楽にあれほど無感動でいて、彼らは人間だろうか?〉

 という皮肉な問いが潜ませてある。

 音楽に陶然と酔い痴れるようでは、近代市民社会を生き抜いて行けないのだ。あるいは、近代市民社会を生き抜くためには、音楽に心奪われるようではダメなのである。

 ハンノオもそうだが、ハンノオの父トーマス・ブッデンブロークにもこれは当てはまる。彼はアムステルダムで豪商の娘ゲルダ・アルノルトセンと出遭い、彼女の奏でるストラディヴァリの妙なる音色に幻惑され、この女人しかいないと直感して結婚した。およそ商家の嫁などにふさわしくない女と。ハンノオはそのような母親から生まれた名門ブッデンブローク商会を継ぐ一粒種だった、ということもここで付け加えておかねばならない。

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