時計と近代市民社会Ⅰ---時計に対する恨み
チャプリン『モダンタイムス』(1936)と丸谷才一『たった一人の反乱』(1972)

 チャプリンの映画『モダンタイムス』の冒頭には時計がスクリーンいっぱいに大写しにされ、針は刻々6時に近づきつつある。次の瞬間、牧場に向かう羊の群れが映し出され、たちまち情景が切り替わると、地下鉄から吐き出された勤め人たちの群れがせわしなく工場へ急ぐ画面となる。

 You Tube『モダンタイムス』冒頭の場面

『モダンタイムス』冒頭の場面

 生産性を高めるため、能率を上げようとする社長の命令でベルトコンベアの流れが加速される。作業テンポについて行けなくなったチャプリンがベルトに乗ったまま機械の中に吸い込まれて行く有名な場面が出てくる。チャプリンが大小さまざまな歯車の間をクネクネと移動するが、あれは時計の内部を暗示しているのかもしれない。

 You Tubeでその場面

歯車の間のチャプリン    

 モダンタイムス(現代)の王者は時計である。
 大多数の人間は時計に駆り立てられ、こき使われる。

 丸谷才一の小説『たった一人の反乱』に、元大学教授野々宮先生の時計についての学識豊かな談話が出てくる。知人のカメラマンの受賞賞品が時計だったことにちなんで、記念パーティーでの祝辞である。小説そのものはそれほどでもないと思うが、この部分だけは精彩を放っている。この作家の本領たるエッセイの領域なのだ。少し長くなるが一部を引用させていただく。

 「実用品としての時計とは何か?言うまでもなく、市民にとっての時計であります。労働者は労働時間を売ることによって報酬を得、生計を立てる。とすれば、当然、労働のはじまりと終リとを決め、それを告げる仕掛けがなければなりません。田園における小人数の労働ならば太陽によっておおよその見当をつける程度で差支えない。しかし、大工場における労働となりますと、そのようなことは許されなくなり、時計がぜひとも必要になる。こうして、マリー・アントワネットにとって玩具であったものが、経営者にとっては基本的な商売道具となるのであります。そしてこの経営者、実業家がつまり市民でありますが、ごく大ざっぱに言ってしまえば、これこそは近代市民社会における時計の意味にはかならない。それは労働時間を計り、さらには金利を計る。これを逆に言えば、市民社会とはすなわち時計によって運営される社会ということになりましょう。西欧の大都市が、ロンドンのビッグ・ベンその他、ことごとく時計塔を待つ意味もこのへんにあるのではないかと考えられます。それゆえ、もし将来、都市の時計塔を占拠して大時計を狂わせつづける者が出るならば、それは市民社会に対する反逆、つまり革命の意図を表明する、まことに好個の冗談となるでありましょう。それは深刻な悪ふざけ、暗示に富んだ人騒がせとしてすこぶる恰好のものではないかと考えられます。」

 映画『モダンタイムス』でも、チャプリンが作業中に上司の上着を間違って圧搾機にかけ、ポケットにしまってあった先祖伝来の大事な懐中時計を煎餅みたいにペシャンコにしてしまう場面が出てくる。

圧搾機でペシャンコにされた懐中時計


 かつて対日貿易赤字に怒ったアメリカの国会ギインさん方が記者団やテレビカメラの前で日本車を叩き壊して見せた、あの愚劣なパフォーマンスと同程度のギャグとも取れなくはない。
 だが、これには、主人(時計)に対する奴隷(労働者)の反乱とまでは呼べないにしても、腹癒せぐらいの意味は認めてもいいかもしれない。
 野々宮先生の博覧強記はとどまるところを知らない。ブロノフスキーという科学史家がすでに指摘していることだが、と断ったうえで、シャン・ジャック・ルソーの自伝『告白』の中に出てくる「時計に関する二つの注目すべきエピソード」を紹介する。そこのところをもう少し引用させてもらいたい。

 「一つは、下宿の女中で彼の終生の伴侶となったテレーズに時計の読み方を教えようとして、いくら努力しても駄目だったという話で、ルソーはこのとき明らかにテレーズの無知を愛し、讃美しています。いや、羨んでさえいるかもしれない。第二は、その数年後、パリを去って隠遁生活にはいったとき、もう時刻を知る必要はないんだと思い、有頂天になって時計を売ってしまう話であります。それを売り払った瞬間こそは生涯における最も幸福なときであった、とルソーは述べていました。(中略)売り払われた時計は、市民生活の秩序と原理に対する彼の反感を、この上なくあざやかに示しているのであります。事実、彼は市民社会に生きながら、市民社会を嫌っていました。市民であることを誇りとしながら、市民であることを逃れたいと願っていました。野蕃人の自然で素朴な状態に熱烈に憧れていた彼にとって、時計を読めない、しかし美しくて優しいテレーズは、野蕃人の美徳を保証するものにほかならなかった。ルソーは自然的人間と市民的人間を対立させました。そして……両者を何とか調和させようという企てに生涯を費したのであります。」



(ちなみに、ひところ日本人の間で熱狂的にもてはやされたミヒャエル・エンデの『モモ』(1973)よりも、野々宮先生の時計談義が一年早い。
 私のような散文的な人間には、いかにもドイツ的で重ったるい童話的寓意小説なんかより、野々宮先生の軽妙洒脱な閑話の方が数段おもしろく思えた。今でもその感想は変わらない。)

 「自然的人間と市民的人間を(中略)何とか調和させよう」とルソーが奮闘していた18世紀に比べて、両者の溝は映画『モダンタイムス』では確実に広がっている。
 大都会を捨てて、と言うべきか、大都会から捨てられ吐き出されて、と言うべきか、チャプリンと恋人役のポーレット・ゴダードがお手々つないで、緑なす(映画はカラーではないが)山々の重なる大自然に向って歩み去る後ろ姿のラストシーンがそのことをよく物語っている。

映画『モダンタイムス』のラストシーン


 これはその間に驚くべき進歩発達を遂げた機械のせいだ。
 いかに短い時間で、いかに多くの人間を遠くまで運び、いかに多くの製品と富を生み出すか。人間の生活を便利で豊かにするために、人間の欲望が作り出した機械によって、大多数の人間はただ忙しなく追いまくられ、こき使われ、肝心の利益の方はほんの一部の者にだけ配分され、独り占めされる。人間に代わって機械が労働することで生み出されるはずだった余暇を享受するのも一部の人たちだけで、大多数はますます殺人的な多忙へと追いやられるか、あるいは、日々の糧を得る手段としての仕事を奪われ、飢えに曝される。そういうシステムが出来てしまっているのだ。
 映画『モダンタイムス』は、産業資本主義と機械文明の中でささやかな幸福を求めようとする個人の努力が無残に踏みにじられていく物語、というふうに要約できるだろう。
大多数に過労と貧困と飢え、ほんの一部の者だけに莫大な富と逸楽をもたらす仕組みの中で、より短い時間でより多くの利益を、という能率と効率の論理を根本で支えているのが時計である。時計は悪の大元締めなのだ。

 チャプリンとその恋人が去って行く先の大自然の中では、論理的には時計は必要なくなるはずである。しかし、映画のラストシーンは単に市民社会と自然の決裂を描いているだけで、バラ色の未来を約束しているわけではない。

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