小島 尚先生の想い出

 ドイツ留学を勧めてくださったのは小島 尚(ひさし)先生である。
 弘前大学文理学部時代のことだった。



 最初の任地、弘前に赴任したのは昭和37年で、その少し前まではドイツ語教師の口などほとんどなかった。それが突然、その前年の秋ごろから、博士課程で就職待ちをしていた先輩たちが一人、また一人と消えていった。
 大学院の入試の時は、ドイツ語でメシが食えるなどとはゆめゆめ思うな、と諭された。私は高校の英語教師の免許状をすでに取っていたので、これなら就職の心配をしてやらなくても済むと安堵して、入学を許してくれたのではないかと、今でも思っている。

 当時は公募方式ではなく、相手の大学から主任教授のところに、空きが出来たので適当な者を推薦してくれと依頼があって、推薦されれば、それでほぼ決まりだった。
 弘前のような本州の最北端の地へ島流しにあわせるようで申し訳ないが、4、5年辛抱しなさい、と言われたのを思い出す。
 前身が旧制高校というのは名門なんだ、と慰めてくれる先輩もいた。
 しかし、私は若く、どこであろうとドイツ語教師になれるのは幸せだったし、東北は憧れの地だったから、宮沢賢治や石川啄木や太宰治の生まれた辺りに行けるのが、ただひたすら嬉しかった。

 弘前市は青森県というより、桜で有名な弘前城、津軽富士の岩木山、りんご、それに太宰治の故郷と言った方が分かりやすい。


 小島先生宅に挨拶に伺ったのはたしか4月2日だったと思うが、ガラス窓の外に雪が舞った。積もるほどではなかったものの、さすが北国と驚いた。
 「4月の初めに雪が降ったことを、きっといつまでも忘れないでしょうね。」と言われたのを憶えている。

 校舎は当時はまだ旧制弘前高校の木造のものをそのまま使っていた。
 キャンパスには白樺の木立があって、5月になるとカッコーが鳴いた。
 暖かい日などに、窓を開けて授業をしていると蝶が舞い込んできて、しばらく優雅な舞を披露した後、去って行った。
 コの字型の校舎の中庭にはひょうたんの形をした池があり、それを取り囲むように立派な桜の木が5、6本、枝を広げていた。

 当時はゴールデンウィークの頃がちょうど桜の満開と重なって、桜祭りが頂点に達する時だった。お城だけでなく大学の中庭の桜もその頃が見ごろとなった。

 
 たしか連休の谷間の4月30日か5月1日だったと思う。
 午前の授業を終えて研究室に戻ってくると、満開の花をつけた桜の枝が二階の窓のすぐ近くまで迫っていて、部屋の壁まで薔薇色に染まる感じだった。
 外を見ると、桜の木の根方に女子学生が3、4人、今しもお弁当の包みを広げようとしているのが花枝の隙間から見えた。
 すっかりロマンチックな気分になって、ついつい歌が口を衝いて出てしまった。

 翌日も好天で、今日もまたきれいな女子学生たちが桜の木の下でお弁当を広げるだろうか、などとのん気なことを想像しながら学校に出かけた。部屋に入るなり、すぐにノックの音がした。小島先生である。いつになく渋い表情で、
 「ちょっと来なさい。」
 研究室に行くと、
 「武田君は着任早々虎の尻尾を踏んづけましたね。」

 今なら、大学なんて珍獣動物園みたいなものだと思っているから驚かないが、当時はウブだったから、大学に虎がいるとは思わない。キツネにつままれた思いだった。キョトンとしている私に
 「君は昨日のお昼に研究室で歌を歌ったでしょう。」
どうしてご存知なのか。

 隣ではなかったが、部屋を一つ二つおいて西洋史の研究室があり、そこに気難しいことで有名な教授がいた。この先生は昼休みというのに研究書を読み耽っておられたらしい。場所柄をわきまえぬ歌が耳に障った。たぶん廊下に出て確かめられたのだろう。今まで研究室で歌など歌った不届き者はいない。聞こえてくる方向からしても、きっとこの四月に赴任したばかりのドイツ語の新入りにちがいない。これだから昭和ふたケタなどという新人類は困る。(私は昭和12年生まれで、文理学部で初の昭和ふたケタだった。)
 直接私のところへ来て注意すればいいものを、主任教授の小島先生宅へ電話を掛けた。
 今度君のところで採ったあの新任はいったい何だ。昼の日中からこともあろうに研究室で歌を歌っておるではないか。もっとしっかりシツケをしなきゃだめだ。
 旧制弘前高校以来の同僚だから互いに遠慮がない。かなりアタマに来ている様子だったという。
 この気難しいことで有名な西洋史の教授は虎尾先生といった。そのご機嫌を損なうようなことするのを、虎の尻尾を踏んづける、と言い習わしていたのである。
 そういったことが、小島先生の説明からようやく分かった。
 ひたすら恐縮するしかなかった。

 小島先生は温厚な紳士だった。ショゲかえっている私を見て可愛そうに思われたのだろう。
 「何を歌ったのかね。」
 「シューベルトです。」
 心なしか表情が和らいだ気がした。
 「ほう、何かね、シューベルトの。」
 「セレナーデです。」
 「ほおう、シューベルトのセレナーデが歌えるのかね、君は。」
 「ちょっと歌ってごらん」とは、まさか仰らなかったが、すっかりご機嫌が直った。
 お説教のほうは打ち切りになって、音楽談義になったが、私はもっぱら聞き役だった。

 小島先生は大の音楽好きで、特にベートーベンの交響曲とピアノ・ソナタがお好きだった。若い頃にはシューベルトのリートもよく歌ったものだ、と言われた。たいしたことはないがピアノも弾ける、とも。
 「君は独身で食事が大変だろうから、どうです、家内の手料理でよければ夕食を食べにいらっしゃい。」

 招かれたのは連休が過ぎてからの土曜日だったと思う。
 とにかく次々にレコードを掛けては、解説入りで、ピアノ、シンフォニーから声楽までいろんな曲を聞かせてもらった、というか、聞かされた。
 口の悪い同僚が、小島先生は「音楽に淫する」と陰口を叩いたほどだ。レコードを掛け始めると、チェーン・スモーカーならぬチェーン・プレーヤーだった。
 当時はLPからステレオになり始めた時代だったが、先生はクリスチャンで子沢山だったし、皆しかるべき大学に入れて教育しておられたので、ステレオ装置など買う余裕がなかった。昔ながらの頭の丸い大きなラジオ型のスピーカーにLPプレーヤーがつないであった。SP盤もたくさんあって、手でゼンマイを巻いて蓄音機で聞かせてもらったが、この方が印象が深かった。
 ロッテ・レーマンの『楽に寄す』とヨーゼフ・シュミットのStändchenは今も忘れない。

 You Tubeで歌曲『楽に寄す』

An die Musik: Lotte Lehmann    

 You Tubeでシューベルト『セレナーデ』

Ständchen: Joseph Schmidt

 しかし、この晩のメイン・イヴェントは、実は、奥様の手料理でも音楽でもなかった。
 すでに夜中に近く、ビールと音楽ですっかりいい気分に浸っていたとき、突然、小島先生が居住まいを正して、言われたのである。
 「武田君、君の修士論文のドイツ語、あれはいったい何ですか。あんなことではとてもドイツ語の教師は務まりません。論文なんか書かなくてもいい。最初の二年間はしっかりドイツ語の勉強をしなさい。」
 何冊か英独のドイツ語文法の書を挙げて、購入して独習するよう促した後、
 「私は木曜日の5時半から研究室で全学の学生を対象に、独作文のクラスを開いています。学生は4、5人しかいないから、君もぜひそこに出なさい。」

 私は修士課程を出てすぐ就職したので、「ギョーセキ」は「修士論文」しかなかった。しかも京大では作文の授業もないのに、全部ドイツ語で書くことになっていた。藤田五郎の参考書で勉強したつもりだったが、実態はヒドイものだった。
 研究室で歌を歌って叱られた時より、この方がはるかにこたえた。
 
 その授業で小島先生はいっさい日本語を使わず、終始ドイツ語で通された。
 将来ドイツに行きたいという医学部のインターン生や教育学部心理学科の助手や文理学部の四年生のほかに、変り種としては、町のプロテスタント教会の30歳くらいの副牧師が参加していた。彼は1年ほどドイツに滞在したことがあって、会話が出来た。副牧師だけでなく、だいたいがみな私よりデキル感じだった。
 肩身の狭い思いの連続だったが、途中でやめるわけにも行かないし、たしかに勉強にはなるので、恥を搔きながらずっと出続けた。
 

 3、4年たった頃だったと思う。突然また小島先生から、
 「ちょっと来なさい。」
 今度は何だろうとおそるおそる研究室に伺うと、
 「留学試験を受けてみる気はありませんか。」

 「虎の尻尾を踏んづけた」と言われた時と同じくらいキョトンとなった。
 学生時代から私費や公費で留学するのが普通の今の風潮からすると不可解かもしれないが、留学など考えたこともなかったのである。
当時は、高度成長期に差し掛かる頃だったとはいえ、まだ1ドル360円時代で、円の持ち出しも限られていた。文理学部からはそれまで誰も留学した者などいなかった。
 どう返事してよいか分からないでいる私に向かってそのとき小島先生が言われたことを、まだ一字一句憶えている。

 自分は最初、旧制佐賀高校に赴任したが、当時の旧制高校には、外国語教師を年齢順に1、2年ずつ留学させる制度があり、楽しみにしていた。ところが、そろそろ自分の順番が回ってくると期待していた矢先、ドイツが戦争を始め(1939年)、やがて日本も大東亜戦争に突入した。もう留学どころではなく、衣食の心配に追われる毎日となった。戦後の新制大学では、外国語教師の留学制度などなくなり、自分はずっとドイツに憧れながら、この歳になるまでまだその地を踏めないでいる。(尤も、この後間もなくゲーテ・インスティトゥートからだったと思うが渡航と滞在の費用が出て、半年近くドイツを訪問された。)しかし、君たち若い人たちにはDAADの試験があって、合格すれば1年か2年の留学が許される。年齢制限があるが、君はまだ28歳だ。最初はダメでもまた次が受けられる。ぜひ若い時にドイツに行って、ドイツ語の勉強だけでなく、ドイツのビールを飲み、WurstやSauerkrautを食べ、本場の音楽を聴き、ドイツの空気を吸ってきなさい。これはきっと君の将来にとって貴重な財産になりますよ。
 いくら鈍感な私でも、この言葉は心に沁みた。

 大学時代の同級生にこの話をしたら、そんなの夢みたいだ、と言った。普通は、留学したいと言っても、非常勤手配の困難などを理由に、なかなか許可してくれない。先輩からは、順序をわきまえろとクレームがつく。お前はなんて運のいい奴なんだ。
 私もそう思った。

 だが、いくら、若いから落ちてもまた来年があるよ、と言われても、田舎町のことだ。留学試験に失敗すれば、噂はたちどころに広まり、風体が悪いし、学生たちにもシメシがつかない。受けるからには何としても合格しなくてはならない。
 あわてて準備をしたが、付け焼刃が通用するわけはないので、ここでもけっきょく運に恵まれたのだと思う。
 試験官のドイツ側責任者がDr. Krügerさんで、前年の夏、十和田湖畔のドイツ語講習会で毎晩夜中過ぎまで一緒に飲み歩いたのを憶えていてくれたのだろう。面接では、やあ来たかといった感じで、分かりやすい質問ばかりした。終わったとたんにさっと立ち上がったかと思うと、つかつかと歩み寄り、にこにこしながら
 „Viel Glück in Deutschland!“
と言って、握手されたのには驚いた。
 尤も、後で廊下ですれ違ったとき、弘前に帰ったらProf. Kojimaに宜しく伝えてくれ、と言われたところを見ると、前もって小島先生から、うちから若い者が受けに行くのでよろしく頼む、とか何とか、話を通してあったのかもしれない。
 小島先生とDr. Krügerは旧知の間柄だった。
 今では考えられないことだが、そういうのん気な時代だった。

 小島先生は何より教育者として立派だったと思う。
 旧制高校時代の教育が何から何まで優れていたとは思わないが、小島先生にはその時代の教師にしかない優しさと厳しさが調和した形で備わっていた。懐かしい人柄だった。学生たちは小島先生を畏れ、憧れていた。単位を落とされても、逆に情熱を奮い立たせ、小島先生の授業に再挑戦して、何としても単位を勝ち取ることに誇りを賭けた。

 ドイツはヒトラー・ナチスの暴虐と、第二次世界大戦の敗戦と、東西分断とによって、威信地に落ちるだけでなく、文化国家としての地位も危ぶまれる状況だったが、それにもかかわらず、みちのくの大学だけでなく、私の学生時代の京都でも、過去の栄光の記憶によって、まだドイツ語を重んじる風潮が残っていた。弘前でも当時は全学部ドイツ語が8単位必修で、戦前のドイツ語崇拝の残光が夕べの空に漂っていた。

 ちなみに湯島の白梅で有名な『婦系図』、「お蔦、主税の二人連れ」の早瀬主税は独逸文学士、恩師の酒井俊蔵は東京帝国大学独逸文学科教授である。主税とひそかに所帯を持つ愛人のお蔦は元芸者、酒井の娘妙子は若き日に彼が神楽坂の芸者に産ませた子である。『婦系図』は、独逸文学者がこのようなヒーローに取り立てられて違和感のなかった頃の物語である。その時代の一大文化・文明国ドイツの言語としての独逸語の輝きの残照があの頃にはまだかすかながら残っていたのだと思う。(やがて大学紛争によって跡形もなくかき消されることになるが。)
 小島先生に対する尊敬や親愛の情が、そういう良き時代の雰囲気によっても支えられていたことは否めない。

 小島先生の専門はどちらかと言うと語学で、『ドイツ語同意語小辞典―英語対照』を研究社ドイツ語小辞典シリーズの一環として出しておられた(1961年)。


 Hauptmannの研究者でもあって、ハウプトマン詩集の翻訳もある。
 しかし、小島先生の人間性に深く根を下ろしていたのは『織工たち(Die Weber)』,『ビーバーの毛皮( Der Biberpelz)』,『踏切り番ティール( Bahnwärter Thiel)』の作者としてのHauptmannだった。
 ご自身では仰らなかったが、戦時中、虐げられる立場で苦労の多かった朝鮮人留学生のめんどうを見て、特高警察につけ回されるという不愉快な体験をされた、という噂を何人かの口から耳にした。
 クリスチャンだったこととも関係するだろうが、小島先生の中に、そういうHauptmann作品の精神が息づいていたことは確かである。
 何かと研究、論文を最優先する今どきの大学教師の風潮とは異なり、生き方の糧としての読書というのが、かの世代の特徴でもあった。

 ハウプトマンと並んで先生が愛読された作家がもう一人いる。
 レオンハルト・フランク(Leonhard Frank)[1882-1961]
 日本ではあまり知られることのない作家だが、反戦平和主義、人道主義、社会民主主義(SPD)という点で終始一貫しており、20世紀前半のドイツで人間的に最も信頼の置ける文筆家の一人だった。
 小島先生は日本で最初の、そして、ほとんど唯一といっていい紹介者にして翻訳者である。
 『後尾車にて・路上(Im letzten Wagen; An der Landstraße)』の翻訳が出たのは昭和10年、春陽堂という出版社からだった。
 内容はいずれもハウプトマンの『織工たち』に近く、その頃の日本で言えば、ほとんどプロレタリア文学である。
 レオンハルト・フランクはナチスが政権に就いて間もなく亡命を余儀なくされ、作品は禁書となり、焚書された。
 翻訳は三国同盟より前だったが、作品の傾向からすると、当時でも検閲に触れておかしくない内容である。
 小島先生は穏やかな紳士だったが、秘められた反骨精神の持ち主でもあった。

  2007年に復刊された翻訳     東ドイツの切手になったフランク
    (ただし、戦後亡命先から帰国後にフランクが住んだのは西独ミュンヘン)

 小島先生は俳句もたしなまれた。いずれも先生の人柄と生活感がにじみ出ている。

  我が糧の独語飛び交う街の夏  (最初の渡独の折にフランクフルトで)

  独の古書 漁り異国の夏匂う  (ドレースデンにて)

  堀越に夜桜灯り浮かぶ城  (弘前城跡公園の花祭りで)

  酔いて歌う「菩提樹」合わす娘(こ)のピアノ
     (お嬢様三人のうちお二人が大学でピアノを学ばれた)

  雪下ろし一夜に続く軒と屋根 

(ちなみに私が赴任した昭和37年から38年にかけての冬は記録に残る38豪雪で、屋根に積もった雪の重みで障子や襖の開け閉めも難しいほどだった。)

 俳句談義もお好きで、いつだったか、おもしろい俳句を次々と紹介された時、中に「蜜柑あまし 女のうそを聞き飽かず」という句があったのを覚えている。誰の作か忘れてしまったが、そんなものをおもしろいと思われるような、さばけたところもあった。西東三鬼の「中年や遠くみのれる夜の桃」といった艶めかしい感じの句を紹介されたこともある。

 小島先生は定年で弘前大学を退職された後、温暖な千葉の地に移り住まれた。
 弘前時代の元同僚と、学会の折に足を伸ばして、一度お訪ねしようと話しあっていたが、いつもどちらかの都合がつかなくて行きそびれているうちに、20年ほど前、82歳で亡くなられた。
それから間もなく奥様も後を追うようにして他界された。しっかりした優しい方だった。
 愛妻家で、奥様を詠まれた句も多い。

  ザボンの黄 指しなやかに剥く夕餉 (佐賀での新婚時代)

  暖炉燃え 妻和す二重唱(デュエット)子の寝顔 (同じく佐賀時代)

  古都の宵 妻と寄り添う川涼し
     (プラハで、定年退職後のヨーロッパ旅行の折り)

 そのうち一緒にお墓参りをしようと話し合っていた元同僚も、10年近く前に60台半ばで逝ってしまった。

 お世話になりながら、迷惑ばかり掛けてきた。
 
 ささやかな拙文が、いまだに墓参も果たせずにいる忘恩の何がしかのつぐないになればと願うのみ。

<戻る

 


inserted by FC2 system