「ただ一度だけ」(Das gibt's nur einmal )夢幻

 ただ一度だけ
 もう二度と来ない
 ただの夢かもしれない。
 人生にただ一度
 明日にはもう消え去っているかも。
 人生にただ一度
 だって花の盛りはただ一度だけ。
 (Das gibt's nur einmal,
 Das kommt nicht wieder,
 Das ist vielleicht nur Träumerei.
 Das kann das Leben nur einmal geben,
 Vielleicht ist's morgen schon vorbei.
 Das kann das Leben nur einmal geben,
 Denn jeder Frühling hat nur einen Mai.)

 戦前のドイツ・ミュージカル映画『会議は踊る(Der Kongreß tanzt)』(1931年制作、日本公開は1934年)で歌われ、一世を風靡した。
 舞台は1814-15年ウィーン会議。
 主人公は手袋店の売り子クリステル(演じ歌うのは可憐な女優リリアン・ハーヴェイ)。


 ロシア皇帝アレクサンドル一世に見初められ、郊外に借り上げられた別荘に迎えの馬車に乗って出掛けるときに歌われる。

 You Tubeで映画のその場面

「ただ一度だけ」(Das gibt's nur einmal)    

 「ただ一度だけ、もう二度と来ない…花の盛りはただ一度だけ」
 と聞くと、日本人なら『ゴンドラの唄』(1915年(大正4年))(吉井勇/中山晋平)を思い出すかもしれない。

 いのちみじかし 恋せよおとめ
 あかきくちびる あせぬまに
 熱き血潮の 冷えぬまに
 あすの月日の ないものを
  ………
 いのちみじかし 恋せよおとめ
 黒髪のいろ あせぬまに
 心のほのお 消えぬ間に
 きょうはふたたび 来ぬものを

 You Tubeで『ゴンドラの唄』

『ゴンドラの唄』森昌子    

 戦前の日本人に『ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal)』が人気を博したのには、一つには主演女優の可憐さもあったかもしれないが、もう一つには「いのちみじかし」への連想があったからではないか。

 しかし、この二つはまったく別のものだ。

 「ただ一度だけ」は正確に訳すと、「こんなことはただ一度しかない」である。
 「こんなこと」とは皇帝に愛されるなどという信じられない幸運を指す。だからこそ、
 「ただの夢かもしれない。人生にただ一度、明日にはもう消え去っているかも。」と続く。
 この前の歌詞も、

 今日はお伽噺のようなことがつぎつぎに起きる。
 (Heut werden alle Märchen wahr.)

 あまりにも素敵すぎて本当とは思えない
 まるで奇跡のように射してくる
 天上から金色の光が。
 (Das ist zu schön um wahr zu sein.
 So wie ein Wunder fällt auf uns nieder
 Vom Paradies ein gold'ner Schein.)

とあって、ロシア皇帝の寵愛がウィーンの一介の町娘にとって「お伽噺」、「天上から射してくる金色の光」に喩えられる。
 「あかきくちびる」や「くろかみのいろ」なら、やがて色あせるにしても、「ただの夢」なんかではない。
 「恋せよおとめ」のお相手は貴族や皇帝や王子である必要はない。彼女が心底愛している男なら身分の上下を問わない。恋人との愛に一度限りのいのちの炎を燃やすことに意味がある。
 「いのちみじかし」で最も印象に残るのは、黒澤明『生きる』で志村喬がこれを歌った場面だ。
 癌のため余命幾ばくもないと宣告された市役所の一市民課長 (志村喬) が,生きる気力を失い、夜の街を彷徨し、飲めぬ酒をあおり、女とも戯れるが、心満たされない。
 そのうちふと、勤勉な小役人として惰性的にお役所仕事を続ける中、何度も繰り返し無視し続けてきたある陳情のことを思い出す。
 貧民が多く住む地区の湿地を埋め立てて小さな児童公園を作ってほしいという陳情だ。彼はまるでデーモンにでも取りつかれた様に、上役や市会議員たちの許を訪れては、公園の必要性を説き、壁のような抵抗と戦って、ついにこのささやかな遊園地を完成させ、小雪舞う夜に、できたばかりの遊園地のブランコに座って、「いのちみじかし」を歌いながら死んでゆく。
 黒澤監督はできるだけへたくそに歌えと指示したそうだ。志村喬はそのとおり、しゃがれ声でぼそぼそ口ごもるように歌っている。

 You Tubeで『生きる』のその場面を含む予告編

『生きる』予告編    

 「ただ一度だけ」となると、こんな場面では決して使えない。場違いもはなはだしいであろう。
 「ただ一度だけ」で強調されるのは、若き日に訪れる夢のような幸運の一回性だからだ。他方「いのちみじかし」の主題は、一度しかないいのちの、今という時の輝き、かけがえのなさである。
 『会議は踊る』のウィーンの町娘、手袋店の売り子クリステルにとって、愛する男を相手に一度限りのいのちの炎を燃やすことが問題ではない。彼女の眼目は、王侯の寵愛という信じられない幸せを人生にただ一度限りの僥倖としてせいいっぱい享受することにある。

 これはウィーンの伝統とかかわりがある。
 この映画より3、40年前、ウィーン会議から7、80年後の世紀末ウィーンには「可愛い町娘」(das süße Mädel)と呼ばれる娘たちがいた。süß(ジュース)はかりに「可愛い」と訳すけれども、süßというドイツ語は「甘い、甘美な」という意味である。あえて訳すなら「スイート・ギャル」だ。そんな言い回しがあるかどうかは知らないが。性的なお楽しみの対象として軽く見下すニュアンスを含んでいる。
 結婚にまでたどり着くことはけっしてない、かりそめの仲とは承知しながら、貴公子に憧れ、1年か2年ほどつきあい、別れた。貴公子たちは同じ身分の令嬢たちと結婚して彼ら本来の上流社会へと去り、残された町娘たちは小市民の男たちと身分相応の結婚をして、下流社会のおかみさんに落ち着いた。
 玉の輿願望とは違う。結婚など初めから思ってもいないのだ。
彼女らが暮らしている世界はあまりにも貧しく灰色であり、艶も潤いもない。彼女らはひと時の夢と救いを上流社会の子弟たちとのかりそめの恋に求めた。

 das süße Mädel (可愛い町娘)という言葉の生みの親であるシュニッツラーの代表作の一つ、戯曲『戯れの恋(Liebelei)』(鷗外訳で『恋愛三昧』)の中で、そのような町娘のところに近所のおかみさんが縁談を持って来る場面がある。花婿候補は亭主の甥で、定職に就いていて身持ちも堅い、良縁ですよ、と言う。
 これに対して、

町娘の父親:花の盛りの娘にとって、たまたま定職にありついた身持ちの固い男ばかりが人生のすべてってわけじゃないでしょう。(中略)若い娘は花の盛りを窓から投げ捨てるためにだけ生きてるわけじゃありませんよ。(中略)おかみさん、あんただって青春をただむざむざと過ごしたってわけじゃないでしょう。
近所のおかみさん:あの頃ことはもうみんな忘れっちまったよ。
町娘の父親:そんなこと言いなさんな…(中略)想い出こそがあんたの人生の宝じゃないのかね。(中略)うちの娘だって…何も想い出すものがなかったら…娘にいったい何が残るって言うんだね。一生ずっと、幸せもなく恋もしらず、来る日も来る日もただ単調に過ぎて行くなら、その方が幸せだとでも言うのかね。

 繰り返すが、これは娘の父親のせりふなのだ。
 本来なら、同じ身分で、定職ついて身持ちの固い若者との結婚をわが娘に勧める立場の父親が、そんな堅気の結婚なんか「花の盛りを窓から投げ捨てる」に等しいことと言い、独身時代に貴公子とつきあい、遊び戯れた楽しい「想い出こそが(娘にとっての唯一の)人生の宝」で、それがなければ、「幸せもなく恋もしらず、来る日も来る日もただ単調に過ぎて行く」だけのむなしい一生である、と言うのだ。
 ただ事ではない。
 一見屈託なく朗らかに見える「可愛い町娘」のこれが舞台裏なのだ。
 それほど身分制社会の下積みに生きる人々の生活は過酷で、救いがなかった。
 ウィーン会議の頃(1814-15)にはまだいなかったかもしれないし、映画ができた頃(1931)にはもういなかったかもしれないが、手袋屋の売り子クリステルは、このようなウィーン世紀末の「可愛い町娘」の亜流である。
 実際クリステルを指して「可愛い町娘」(ein süßes Mädel)と言われているし、他の箇所でもsüße Mädelという単語が出て来るだけでなく、数人の可愛い町娘たちが登場して、それにふさわしい役柄を演じてもいる。
 メッテルニヒはウィーンの可憐な町娘の魅力を巧みに利用して、ロシア皇帝を会議から遠ざけ、議事を有利に進めようと謀るが、その手には乗らじとするアレクサンドルとの駆け引きの狭間でクリステルの運命も危うく揺れ動くが、けっきょくは彼女の魅力がロシア皇帝の心をつかみ、めでたく結ばれる直前にまでは行く。


 だが最後はナポレオンのエルバ島脱出のニュースがウィーンに届き、各国首脳が慌しく帰国の途に就く。ロシア皇帝も例外ではない。こうして可愛い町娘の「ただ一度だけ」の夢も露と消えるのである。
 クリステルがウィーン郊外の別荘に招待される馬車の上で誇らかに歌ったのと同じ歌がこの時Weinstube(ビアホールよりは幾分か落ち着いたワイン酒房)で歌われるが、最初とはまったく違うニュアンスである。jeder Frühling hat nur einen Mai.(直訳は「どんな春も五月[日本なら四月]はただ一度だけ」)という歌詞が失意のクリステルをあたかも嘲るかのように響くのが印象的である。
 たわいない娯楽ミュージカルとも思え、王侯との愛を引き裂かれる可憐な町娘の哀しみという赴きがないわけではない。
 しかし、それよりもむしろ、信じられないような幸運の予感に舞い上がった純真と言うか愚かと言うべきか、いや、ほんとうは哀れと言うべき町娘が歴史の流れに翻弄される、という印象の方が強い。その点で、単なる娯楽映画の域を越えており、シュニッツラー戯曲の伝統を忠実に踏まえているとも言える。
 『戯れの恋』でも町娘クリスティーネの夢も恋も、その父親の思いやりも、非情な現実によって踏みにじられてしまう。(この映画の主人公も呼称はクリステルだが、本名はクリスティーネ・ヴァインツィンガーである。)
 ただし、芝居のクリスティーネはドーナウ河に身を投げて果てるが、映画のクリステルはたぶんそこまで思いつめることはないだろう。
 ともあれ、この映画の観客の多くは女優リリアン・ハーヴェイの可憐な容姿と明るいメロディに酔いしれ、シュニッツラー演劇との関連などは考えもしなかったろうし、ウィーン下層社会の可愛い町娘の哀れな身の上には思い至らなかった。
 だからこそこの映画もあそこまで人気を博すことができたのだ。


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