池内訳への疑問
---原典批判版 カフカ『審判』の新訳について---

(以下は今から10年近く前に書いて、日本独文学会の学会誌『ドイツ文学』編集委員会に送ったものである。「個人攻撃」はダメという理由から受け容れられなかった。私は学術的な議論だと思っている。これが「個人攻撃」かどうか、読んだ上で判断してほしい。)

 池内紀さんの翻訳については、かつてジュースキント『香水』の誤訳が指摘されたことがある。あの時はしかし、名を明かさずに批判するのはフェアーじゃないといった声が大勢を占め、誤訳批判そのものはウヤムヤのうちに沙汰止みとなった。意気込んでいた匿名氏もその後はなぜか沈黙してしまわれた。むろん批判は正々堂々とやった方が良いに決まっている。しかし、より重要なのは、それが的を射ているかどうか、という点であろう。
 今から思うと、あの時「匿名」なんかにこだわらず、思い切って誤訳論議をやっておくべきだった。その方がその後の池内さんにとっても、日本の読書界にとっても幸せだったのではあるまいか、そういう感想を禁じえない。
 というのも、池内さんの『審判』新訳を読んで、唖然としたからである。
 別に誤訳を見つけてやろうと鵜の目鷹の目であら探しをしたわけではない。普通に読んだだけだが、前に何度か原文や訳で親しんでいるので、ぼんやり記憶に残っているものとほとんど無意識の内に照らし合わせながら読んでいれば、何となく変だと感じるところがちょくちょく出て来る。調べて見ると、やはりおかしい。

 以下は、ほんの1ページほどの中にたて続けに出てきた誤訳の例。
 [ ]内は小生(別に小生でなくてもよい、従来の訳の通りである)の訳。
 引用した原文はFischer版Kafka: Kritische Ausgabe „Prozeß“、訳は池内紀訳カフカ小説全集『審判』(白水社、2001年1月。2001年11月刊第3刷でも変らず)から。

 原文S.53f. 池内訳50p-51p:法廷に召喚されたK.がユーリウス街を歩いて行く場面。

1) Man rief einander über die Gasse zu, ein solcher Zuruf bewirkte gerade über K. ein großes Gelächter.
:通りごしに声をかけ合っている人もいて、そのやりとりにKはつい笑い出さずにいられなかった。
[通りごしに声を掛け合っている人たちもいて、そのようなやりとりが引き起こした高笑いがちょうどK.の頭上に響き渡った。]

2) Eben begann ein in besseren Stadtvierteln ausgedientes Grammophon mörderisch zu spielen.
:少しましな界隈に入ったとたん、レコードの音がにぎやかにひびいてきた。
[ちょうどその時、山の手あたりで使い古されたあげくお払い箱になった蓄音機が殺人的な騒音を立て始めた。]

3) Es war kurz nach neun.
:訳欠落!
[9時をちょっと過ぎていた。]

4) In einer Ecke des Hofes wurde zwischen zwei Fenstern ein Strick gespannt, auf dem die zum Trocknen bestimmte Wäsche schon hing. Ein Mann stand unten und leitete die Arbeit durch ein paar Zurufe.
:中庭の隅の二つの窓に紐がわたしてあって、洗濯物がズラリとつるしてあった。下手に男が立って、声をかけながら作業を進めていた。
[中庭の一角では、干すための洗濯物があらかじめ吊るしてあるロープを窓から窓へ張り渡している最中で、男が一人下に立って、あれこれ呼び掛けながらその作業を指図していた。]

 まず3)、訳し忘れるなどというのは、売り物としていくらなんでもずさん。

 1)など考えようによっては内容的にも重要。Gelächterという単語はこの章に何度か出て来て(例えば審理の初めに判事がK.に「ペンキ屋か」と尋ね、K.が「いや、さる大銀行の業務主任だ」と答えると爆笑が起こる、といったぐあい)、笑われる対象がその都度K.であるかのような書き方になっている。この個所も、直接K.が笑われるわけではないが、ちょうどK.の真上で爆笑が起こるというのは、偶然では済まない。都心の大銀行のエリート行員ヨーゼフ・K.が場末のスラム街の裁判所にやって来て、さんざん笑い飛ばされる…そういうメッセージを、この章は発信しているかに思えるのだが、そこをこんな風に誤訳しては、重要なポイントの一つが失われてしまう。

 2) も、ユーリウス街の貧民地区的特徴がよく出ている個所で、単なる幼稚な誤訳では済まないのじゃないだろうか。

 4)も貧民地区の生活ぶりが見事に描写されている個所、池内訳では情景が掴めない。
 わざわざ院生を煩わすまでもない、学部3年でも気が付くような安直な誤訳ばかりである。どうして池内さんともあろうお方がこんな間違いをかくも立て続けになさるのか、正直言って合点が行かない。

 決して個人攻撃ではない。『ファウスト』訳で翻訳文化賞を授けられた訳者による、新しいKritische Ausgabeからの我が国初のカフカ翻訳ともなると、当然期待も大きい。ご本人も意気込んでおられるはず。それがこんなに誤訳だらけでは、読者に対して申し訳が立たないではないか。それでもなお独文学会が沈黙を守るとすると、学会も読者を誑かす欺瞞行為の共犯ということになりはしないか。池内さんも、翻訳によって印税を得ておられる以上、Verleumdungならぬ真摯な批判には、謙虚に耳を傾けられるべきであろう。

 もう一ヶ所、池内さんの「名誉」も兼ねて、挙げておく。
原文S.282f. 池内訳:258p-259p:「大聖堂にて」

5) Mit einer ähnlichen Gangart, wie es dieses eilige Hinken war, hatte K. als Kind das Reiten auf Pferden nachzuahmen versucht.
:せわしなく足をピョコつかせる歩調を、Kは幼いとき、乗っていた馬にやらせようとしたことがある。
[せわしなく足をピョコつかせるあのような歩きかたで、Kは幼いとき、乗馬ゴッコをして遊んだことがある。]

6) auch wollte er die Erscheinung, für den Fall, daß der Italiener doch noch kommen sollte, nicht ganz verscheuchen.
:それに遅ればせながらイタリア人がやってきたとき、この幽霊のような爺さんを見せるのも一興だろう。

 5)はまたしても信じられないような誤訳だが、
 6)は一読してエッ!と思うけれども、誤訳ではない。池内さんの解釈である、しかも、ウーン、ナルホド、と思わせるような。ヨーゼフ・K.という男の本性がよく出ている。
 字面だけを追った凡庸な訳だと、「遅ればせながらイタリア人がやってきたときのために、この幽霊のような爺さんをすっかり追っ払うことまではしたくなかった」となって無難だが、ひょっとして案内を乞う必要でもあるのかしら、などとつまらぬことを考えながら素通りしてしまう。こんなふうに池内流に訳されて初めて、あの個所が活きて来ると思う。
 ここに現れているような意識しない驕慢と冷酷、K.のそのような性格こそが得体の知れない裁判所を招き寄せているらしいのだが、本人はそのことに気付いていない。さりげない訳文の背後にある<読み>が、解釈への刺激を与えてくれている例であろう。

 とっつきにくいドイツ文学を日本の読者に馴染み易いものとする「こなれた訳文」の魅力だけではなく、池内訳にはそのような新鮮で果敢な読みも見られる。そのことまで否定するつもりはない。カール・クラウスのすぐれた研究や翻訳、ウィーン世紀末に関する芳醇な味わいの数多の著書、それらを通して学び、啓発されるところの多かった者にとって、信じられないような誤訳の数々は不可解であり、残念である。

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