しんぶんに包みて炭をもらいけり 長田大三郎先生
2011年夏、一年前に御子息の紘一郎氏から送っていただいた大三郎先生のスケッチブックをお返しかたがた、久しぶりに先生のお墓にお参りをした。 その折り、紘一郎氏から先生が定年後に出された子供のための詩画集の原稿を見せられ、先生の人柄に触れる思いで、懐かしく、絵にも詩にも惹かれて、ついまた無理を言ってお貸しいただいた。 時間的な順序からははずれるが、以下、想い出の文章の間にはさむ形で、手書きの詩画集『子どもたちへのうた』の中から幾つかの詩と絵を紹介させていただくことにする。説明は無用、解説など邪魔なだけだと思う。 「子どもたちへのうた」より 「夏の晩、大きな目玉がシローイゆかたを着てユラユラ近づいて来ました。このオバケなーに?」 「オサダせんせい!」 山村の中学一年生の謎かけである。 長田大三郎先生は目が大きく、色が黒かった。しかしその眼は人なつこく、生徒から親しまれた。 句会に出席された折りに 国語、社会、図工が受け持ちの教科だった。 戦前に御影師範(現在の神戸大学教育学部)を出て、体格はそれほどではなかったが、学生時代はボートの選手だった。昭和13年(1938)7月の阪神大水害の時には船を出して、救助活動に加わったが、助けることが出来たのはおばあさん一人きりだった、と笑って話しておられた。 当時、師範出の先生は堅実だけれども、型にはまっていて退屈だと言われていたが、長田先生は異彩を放っていた。 日本史の試験に鎌倉時代を代表する歌人とそのいちばん有名な和歌を書きなさい、という問題が出たことがある。実朝ならまだしも、先生が授業中に熱を入れて話されたのは西行とその歌だった。今なら、教育委員会か、PTAから文句の一つも出るところだ。当時はのんびりしていた。 こころなき身にもあわれはしられけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ おかげでこの歌を中学二年の時に憶えた。 「子どもたちへのうた」より 絵もとびきりうまくて、いい作品が出来るたびに、校長室前のロビーに飾られた。生徒たちはそのつど目を輝かせて見入ったものだ。みな水彩で、普通の画用紙に普通の絵具で描かれたものだったので、年とともに色褪せて、散逸してしまったのだろうと思うと、もったいない気がする。今ならデジカメで撮って、パソコンに移し、編集して解説を付け、広く世に紹介することもできただろうに。 ご子息の紘一郎氏に問い合わせたところ、かつて額縁に入れて中学校の玄関ロビーを飾っていたような本格的な絵はみな失われてしまったそうだ。(なお、上に書いたように、この夏、墓参に帰省した際、むかしの中学校の跡地に建つ小学校に寄ってみた。夏休みにもかかわらず校長先生が来ておられたので、大三郎先生の話をして、絵が残っていないかどうかお尋ねしたが、去年赴任なさったばかりということもあって、やはりどこへ行ったか分からないとのことだった。) ご子息から代わりに送ってもらった北海道旅行(昭和57年夏)の際のスケッチブックから3、4点ほど載せさせていただく。 これらからでも先生の優れた画才の片鱗くらいはうかがうことができると思う。 銀河の滝 札幌植物園内 アイヌ博物館 日暮れの阿寒湖 雌阿寒岳 月寒の丘にて
「子どもたちへのうた」より 長田先生は俳句を詠まれたが、趣味の域を脱していて、関西では名の知れた俳句雑誌の同人に迎えられ、句集もいくつか出された。 俳号 桐萱雄。 しだいに前衛的になり、難解なものになっていったが、初期の俳句は素朴で、印象が鮮やかだったので、自然とすぐに憶えてしまった。表題に掲げた しんぶんに包みて炭をもらいけり の他にも 山椒の背のふろしきに匂いけり 祭り笛 ひと振りくれて吹き始む 咳ひとつ遠くへとびぬ冬の月 一面の切り株寒し冬の月 これらはすべて第一句集『春も霜集降る』(昭和34年)からのもの。 いつだったか、俳句をやっているという同僚にこれらの句を聞かせたことがある。いい俳句だ、才能のある人だ、としきりに感心していた。 私の大学入学を祝って、色紙に書いてくださった句 凛々と万朶の露の陽をはじく 「子どもたちへのうた」より 第二句集は『飢餓の鬼火』(昭和53年)。スケッチブックと一緒に送っていただいた。 この題は 老人村の飢餓の鬼火の曼珠沙華 から来ている。 すでに山村の過疎化は始まっていた。 これに代表されるように、重たく、読んでいて辛くなるような句が並んでいる。 死へ光る凍蝶翅を輝かせ 北風におらぶ貧しきものの墓集い さびしき少年 彼岸花の首刎ねても 悪声のカラスが首領 政治寒し 貧しくて祭太鼓を打ち鳴らす この冬木の枝に勲章かけておけ 地下足袋を揃え老人自殺せり 春の叙勲 沼のいもりが浮いてくる 行商の老婆の雪の足跡よ 晩春やわれにつきくる迷い犬 常に農民、弱者の側に立つ抵抗と憤怒の詩人、と俳句の師匠だった加藤かけい氏は書いておられるが、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」、「ざん壕で読む妹を売る手紙」、「胎内の動きを知るころ骨がつき」、「もう綿くずも吸えない肺でクビになる」と詠った反戦川柳作家鶴彬を思わせる鬱屈した激しさを感じさせる句が多い。 それだけに私のような者は、 軍手ぬぎ 芽吹く柳に触れおりし 眼鏡はずして 遠うぐいすを聞きいたり といった俳句に出会った時はほっと心が和む。 「子どもたちへのうた」より 晩年は長らく奥様と二人暮らしだったが、神戸で先生をしていたご子息が定年で故郷に帰って来られて、それを待っておられたかのように、間もなく亡くなられた。 先生のお墓の横には、その頃に詠まれた句を刻んだ碑が建てられている。先生の筆をそのまま拡大したものである。 寄り添い二輪 冬のたんぽぽ風に咲く
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